水泳

June 10, 2020

金メダルを12年ぶりに獲ったウルリケ・マイファルトと16年ぶりに獲ったアンソニー・アービン

ウルリケ・マイファルト(西ドイツ=当時)は陸上史に残る選手である。
(Ulrike Nasse-Meyfarth 英語であれば メイファース と読むのだろうが、日本では昔から マイファルト と読んでいる。)

というのも16歳と28歳で、オリンピックの同一種目に金メダルを獲ったからだ。
1968年のメキシコオリンピック、走り高跳びはアメリカのフォスベリーによって新しい時代を迎えた。
現在では、誰しもが跳ぶ背面跳びを最初に始めたのがフォスベリーである。
とはいうものの、4年後のミュンヘンオリンピックでも背面跳びをマスターしていた選手は少なく、自己ベストが1m85だったマイファルトはホームの熱狂的な応援を背に1m92を跳び優勝。16歳の金メダリストとなった。

●ウルリケ・マイファルトの主な戦績
1972年 ミュンヘン五輪 ①1.92m
1974年 欧州選手権 ⑦1.83m
1976年 モントリオール五輪 1.78m 予選22位敗退
1978年 欧州選手権 ⑤1.91m
1980年 モスクワ五輪 ボイコット
1982年 欧州選手権 ①2.02m
1983年 第1回世界陸上 ②1.99m 
1984年 ロス五輪 ①2.02m

岩崎恭子がバルセロナオリンピックで14歳で金メダルを獲った後、自分の泳ぎが出来なくなり、アトランタオリンピックには出場しているが、バルセロナ以後、金メダルタイムを更新することは一度もなく引退した。
洋の東西を問わず、若き金メダリストが壁にぶち当たるのは同じようだ。
マイファルトも、1976年のモントリオールオリンピックでは決勝に進むことが出来なかった。
このときの記録を調べてみると予選通過ラインは1m80、マイファルトは1m78しか跳べずに22位に終わった。
西ドイツは、1980年のモスクワオリンピックを、日本と同様アメリカに追随しボイコット、マイファルトはモスクワの地を踏むことが出来なかった。

が、この後徐々に復調していく。
1983年、ヘルシンキの世界陸上選手権では、ブルガリアのタマラ・ブイコワと壮絶な争いの末2位。
1984年、ロサンゼルスオリンピックはソ連、東ドイツなど東側諸国が報復ボイコットし、オリンピックでのブイコワとの対決は見ることはできなかったものの、マイファルトは12年ぶりに同一種目での金メダルを獲得。
優勝記録は2m02と好記録だった。

同一種目で、12年のブランクを経て再び金メダルを獲った例はマイファルトが唯一である と長い間言って来たが、2016年のリオデジャネイロオリンピックでこの記録を上回る金メダリストが現れた。

競泳男子50m自由形において、19歳と35歳で金メダルを獲ったのがアンソニー・アービン。
同一種目で16年のブランクを置いての金メダルは、ウルリケ・マイファルトの12年を超える。

19歳で迎えたシドニーオリンピック。
50m自由形で金メダルを獲ったアービンは、白人と黒人の両親を持つハーフだが、初の黒人系金メダリストとして注目された。
22歳で一度は現役を引退した。
その際に両腕に鮮やかな入れ墨をしたが、現在も彫ったままだ。
シドニーの金メダルはオークションにかけ、04年のスマトラ沖地震の被災者のために寄付したというが、その額は17000ドル。

その後、ロックバンドで活動するなどしたものの、酒におぼれ、自殺未遂をしたこともあるというが、どん底の時期をへて2010年にプールに戻ってきた。
大学院に入学し、水泳の動作解析などを研究するうちに泳ぐ意欲が沸いてきたと言う。
そして、リオデジャネイロオリンピック。
35歳5カ月での金メダルは競泳個人種目で最年長となる。

昨年9月 競泳金メダリストの「挫折」と「復活」と題してNHK BSでアンソニー・アービンの特集が放送された。

38歳になった金メダリストは東京オリンピックをめざすとしている。
が、東京オリンピックの開催延期が決まり、2021年に彼は40歳になる。
果たして、東京のプールで泳ぐことはできるだろうか。

●アンソニー・アービンの50m自由形
2000年 シドニー五輪 ①21.98(ゲイリー・ホールJrと同タイム)
2004年 アテネ五輪 出場なし
2008年 北京五輪 出場なし
2012年 ロンドン五輪 ⑤21.78
2016年 リオデジャネイロ五輪 ①21.40

 

|

February 13, 2019

ファイトだ 池江!19歳で白血病を発症、27歳で五輪競泳金メダリストになった男のはなし

マーテン・ファンデルバイデンは、2008年のオランダのスポーツマンオブザイヤーに選ばれた。
それは、2008年に開催された北京五輪のOWS(オープンウォータースイミング)で金メダルを獲得した最初の選手になっただけでなく、急性白血病に打ち勝ったひとりの人間であったからだ。

 

Ows2008_2

▲表彰台の真ん中にいるのが白血病発症発症から8年目のマーテン・ファンデルバイデン

2mを超える長身。大男ぞろいのオランダでもなかなか2mの競泳選手ははいない。
この時期、世界の自由形の短距離の中心にいたピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドが193㎝。
3歳年下のファンデルバイデンの方が、10㎝近く高かった。

アテネ五輪の3年前、19歳の時にファンデルバイデンは複視と息切れを訴えた。
ただならぬ症状に病院に行くと急性白血病と診断された、2001年のことだ。

闘病は2年間に及んだ。その間に4回の化学療法と1回の幹細胞移植が施された。

発病する前、既に自由形の長距離と、OWSで名の知れた選手であったファンデルバイデンは、徐々にレースに復帰していく。
最初は筋肉の落ちた体の回復から始めたが、2005年にはいくつかの国際大会で勝てるようになり、2008年北京五輪のOWSオランダ代表に選ばれた。

先述のように、当時のオランダには男子にはピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド、女子にはインヘ・デブルーインという競泳界の大スターがいた。
闘病するファンデルバイデンにとって、母国のスターの2004年のアテネ五輪での活躍は大いに刺激になっていたのだろう。

特に30歳のピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドは、シドニー、アテネと100m自由形を制し、北京五輪での競泳同一種目3連覇が掛かっていた。
女子には下記の2人の選手が3連覇を達成していたが、男子にはいなかったのだ。
 1956-1964ドーン・フレーザー(豪洲) 競泳100m自由形
 1988-1996 クリスティーナ・エゲルセギ(ハンガリー) 競泳100m背泳ぎ

北京五輪では個人種目は100mの一種目に絞っていたピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド。
8月14日の100m自由形決勝、47.75秒のピーターは5位に終わり、3連覇の夢は絶たれた。
が、この47.75秒の記録は、彼のシドニー、アテネ両五輪の同種目の金メダルタイムを超える快記録でもあった。

OWSは競泳の最終日に行われる。
この日まで、オランダ水泳チームは、女子の4継リレーで金メダルを獲ってはいたが、男子はゼロ。
ファンデルバイデンに金メダルの期待が大きくのしかかっていた。
8月21日 北京郊外の順義オリンピック水上公園、カヌーやボートの競技会場だった施設だがこの日はOWSが行われる。
選手としての引退を決めていたピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドはオランダのテレビ局にゲストとして呼ばれていた。

OWSはいわば、外海を10㎞泳いで勝者を決める過酷な競技。
強靭な肉体とタフな精神が求められる。
出場したのは選りすぐりの25名。
どうぞ下記の動画をご覧ください。

金メダルはマーテン・ファンデルバイデン。
オランダの競泳ファンは、彼の勝利だけでなく、レースの終盤、コメンテーターから一人のファンになったピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドのことも今も忘れていない。

|

February 08, 2019

平成のスポーツの記憶⑤ 北島康介20歳 初めての世界新

平成142002

北島康介はその競泳人生において、4個の五輪金メダルを獲り、5回の世界新記録を出した。
世界記録は100m平泳ぎが3回、200m平泳ぎが2回。
その初めての世界記録が2002年釜山アジア大会の200m平泳ぎ決勝だ。

1982年9月22日生まれだからこのとき20歳。
日本人による競泳の世界記録は、1972年のミュンヘン五輪で金メダルを獲った男子100m平泳ぎの田口信教氏、100mバタフライの青木まゆみ氏以来30年振りだった。

2002年当時の世界記録は、米国のマイク・バローマンが、バルセロナ五輪の決勝でマークした2分10秒16。
ちょうど10年間更新されず、最も古い世界記録だった。

●男子200m平泳ぎ決勝
①北島康介 (日体大) 2.09.97 世界新
②木村太輔 (近大)  2.13.60
③ラタポ  (タイ)  2.15.81

この年6月の日本選手権では、世界歴代3位の2分10秒64を出し、世界記録を視界に入れた。が、8月末に開催されたパンパシフィック選手権を右ひじ痛のため棄権。
挫折を経て成し遂げた世界記録だった。

この大会で北島は100 m平泳ぎ、200 m平泳ぎ、4×100mメドレーリレーの3つの金メダルを獲得。大会MVPに選ばれている。

ハンガリーのギュルタは、ロンドン五輪の200mを世界新記録で制したが、実はその8年前、アテネ五輪の同種目に、北島康介が金メダルを取ったレースでは若干15歳にして銀メダルを獲っている。
これは男子の競泳での最年少のメダリストだ。
ロンドン五輪では、ノルウェーのダーレ・オーエンが金メダルに最も近いと思われていたが、五輪の数カ月前に急死した。
ギュルタはオーエンの両親に金メダルのレプリカを贈っている。
Screenshot_20180816074046

Busanpool
▲釜山アジア大会の競泳の会場

|

February 05, 2019

平成のスポーツの記憶④ 誰も知らないロン・カーノウのはなし

平成1992

1992年バルセロナ五輪
27年も前の五輪である。
この大会の開会式は、随分と芸術にあふれた印象に残る開会式だった。

Wikipediaにはこうある。
文化的特徴に富み、美術、芸術面で著名な人物を輩出し続けるスペインらしく、開会式、閉会式ともに音楽監督でカタルーニャ生まれで世界的に人気の高いテノール歌手のホセ・カレーラスや、モンセラート・カバリェをはじめとする多くのスペイン人歌手の他にも多くのアーティストが参画し、近年でもまれに見る芸術性の高い開会式、閉会式であると絶賛された。

音楽監督は、「三大テノール」の1人であるホセ・カレーラスがを務めた。
当初は、クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーが、カタルーニャ出身の女性歌手モンセラート・カバリェと「バルセロナ」をデュエットする予定だったが、前年の1991年HIV感染により死去、開会式では生前の歌声だけが響いた。

Barcerona

また、坂本龍一は地中海の神話をモチーフに作曲したマスゲームの音楽「El Mar Mediterrani」を作曲、指揮をした。

この真夏の世の夢とでもいうべき祭典の途中、予想しなかった事故が起きた。

アメリカのロン・カーノウは競泳200m個人メドレーの優勝候補だった。
自由形、背泳、平泳ぎ、バタフライの4種類の泳法に挑んでいるときこそ、彼の人生で最も充実した時間だった。
カーノウの父親のピーターは、息子の活躍を見るために大西洋を渡ってバルセロナに来ていた。
もちろん、お祭り好きなアメリカ人だから開会式に間に合うようにスペインに着いた。
開会式でスタジアムを歩く息子の写真を撮るために、スタジアムの階段を登ったときに、61歳のピーターの心臓は致命的な発作を受け、そして停まってしまった。

こんな悲劇にもかかわらず、カーノウは4日後の200m個人メドレーを棄権することはなかった。予選を全体の2位で突破、しかし決勝に進出するも6位に終わった。
優勝したのはハンガリーのタマス・ダルニュイ。
1988年ソウル・92年バルセロナ両五輪の200m・400mの個人メドレーをともに制した競泳史に残る大スイマーだ。

『なぜオリンピック中だったんだ、なぜ開会式の最中だったんだ』
ロン・カーノウは、偶然訪れた父の最期が、なぜ開会式の最中だったのか、自らに問いただしてみたが答えは得られなかった。

『父親が開会式で倒れ亡くならなかったら、俺はダルニュイに勝てたのか?』答えは出るはずがない。

薬剤師をしていたカーノウは、ニューヨーク・ヤンキースのジョージ・スタインブレナーオーナーからの奨学金を受け、ニュージャージー医科歯科大学に入学、そして1997年に卒業した。

ところが、彼はやり残したことがあると言い出し、整形外科の卒後研修を延期した。
そう、再び五輪の舞台に立とうとしていたのだ。
博士号を持った31歳が、今更プールに立つ?彼の周囲は、彼の決定を愚かだと言った。
1998年 オーストラリアのパースで行われた世界水泳選手権、イアン・ソープの15歳での世界デビューとなる大会にカーノウは出場した。

200m個人メドレーでは3位になった。が、カーノウが目指していた2000年のシドニー五輪は、全米代表選考会で敗れ、再びオーストラリアの地を踏むことは出来なかった。

この後、カーノウがどんな人生を歩んでいったかは、筆者もよくは知らない。が、水泳をやめることはなく、マスターズの大会などに出場し、そして医師としても活躍していると聞いている。

|

January 25, 2019

平成のスポーツの記憶② 代々木オリンピックプール最後の世界記録

平成1989

1964年の東京五輪のために建設され、2020年の東京五輪でも競技会場となる施設がいくつかある。
代々木競技場、日本武道館、東京体育館などがそうだ。

代々木競技場は、国立代々木競技場が正式な名称で、第一体育館と第二体育館からなる。
第一体育館は代々木体育館あるいは、代々木第一と呼ばれることが多い。が、かつてはオリンピックプールと呼ばれていた。
というのも1964年の東京五輪時は、水泳競技(競泳・飛込み)の会場だったのだ。

Yoyogi

当時から、プールだけでなく体育館しても使えるように設計されており、五輪後は、水泳と並んでフィギュアスケート、アイスホッケー、バレーボール、室内陸上、ボクシング等様々な競技が行われてきた。
また、コンサートの殿堂としても知られている。
最初に代々木を使ったアーチストは、1983年のチャゲ&飛鳥、外国人では1985年のブルース・スプリングスティーンだ。

平成元年 1989年8月21日、代々木のオリンピックプールで行われていた競泳のパンパシフィック選手権最終日、女子800m自由形でジャネット・エバンスが、自己記録を0秒90短縮する8分16分22の世界新記録を出した。
この前年のソウル五輪で3冠を達成したエバンスもこのときはまだ18歳、この記録がその後18年も生き残るとは思わなかっただろう。

バルセロナ五輪でこの種目に連覇したエバンスのタイムは8分25秒52。
そして、25歳で迎えたアトランタでは6位(8分38秒91)に終わった。

この種目、2004年のアテネ五輪では、柴田亜衣が金メダルを穫っているが、そのタイムは8分24秒54、エバンスの記録が、競泳の永遠に残る世界記録になりかけていた。

ところが、北京五輪で、イギリスのレベッカ・アドリントンが、8分14秒10で優勝、19年目の世界新記録となった。
ベッカ・アドリントンは、続く400mでも4分3秒22で優勝しており2冠となった。
女子競泳で、イギリス勢が金メダルを獲得するのは、1960年のローマ大会以来の快挙であり、4年後のロンドン五輪開催に向けての強化が実り始めていた。

このように代々木のオリンピックプールは、18年間もだれも超えられなかった世界記録を生んだプールだったのだ。
今でこそ、辰巳、習志野、横浜と国際規格のプールが首都圏に3つもあり、有明には五輪仕様のプールが建設されている。が、1989年当時は代々木にしかなかった。

ところが、水泳の競技施設としての代々木体育館は徐々に老朽化し、1997年頃にその役割を終えた。
それ以降オリンピックプールと呼ばれることはない。

体育館の設計は丹下健三の手によるもので、丹下の代表的作品とされる。
第一体育館・第二体育館とも、吊り橋と同様の吊り構造の技術を用いており、第一体育館は2本、第二体育館は1本の主柱から、屋根全体が吊り下げられている。
その形状の美しさは、1964年当時五輪のために来日した関係者にも強烈な印象を残したと言う。

現在、代々木第一体育館は、2020年の東京五輪のハンドボール会場として迎えるべく改装工事をしている。

●競泳女子800m世界歴代ランキング 1989年のエバンスの記録が堂々6位にランクされている。
800_2

 

|

August 25, 2018

メドレーリレーの銀メダルの日本チームに伸び代はどこまであるのか

昨夜のメドレーリレーの銀メダルの日本チームの年齢とタイム

入江 28歳(52.53)
小関 26歳(58.45)
小堀 24歳(51.06)
塩浦 26歳(47.99)

金メダルの中国チームの年齢とタイム

徐嘉余 23歳(52.60)
閻子貝 22歳(58.86)
李朱濠 19歳(50.61)
余賀新 22歳(47.92)

2020年を考えた時に日本に伸び代はどのくらいあるのか?

一方の金メダルを獲った女子

酒井夏海 17歳(59.42)
鈴木聡美 27歳(1:05.43)
池江璃花子 18歳(55.80)
青木智美 23歳(54.08)

なんといっても8継も泳げる酒井(背泳ぎ)が出てきたことは大きい。

|

August 24, 2018

池江璃花子6冠なるか、孫楊は9冠に挑戦

男子100m自由形で塩浦慎理が48秒71のタイムで金メダルを獲得。
この種目の日本勢の優勝は1998年バンコク大会の伊藤俊介氏以来。
伊藤俊介氏は双子のスイマーとして知られ、弟の伊藤秀介氏もバンコクの100mでは銀メダルを獲っている。
また、伊藤俊介氏はこの大会で100m自由形のほかに、4×100mリレー、4×200mリレー、4×100mメドレーリレーでも金メダルを獲り、4冠を達成している。

Screenshot_20180824121136

もうひとりの5冠
1990年北京大会の100m自由形を制した沈堅強(中国)は、ほかにも50 m自由形、100mバタフライ、4×100mリレー、4×100mメドレーリレーデモ金メダルを獲り5冠。
さらにはこの4年前のソウル大会の4×100mリレーでも金メダルをとっており、通算で6個の金、2個の銀、1個の銅を獲っている。
ただし、この時代のアジアの競泳は世界水準とは言えず、五輪での活躍はない。

孫楊は通算9冠なるか?
中国の孫楊は、今大会200m、400m、800m自由形に優勝しており、今日の1500mに勝てば4冠。
これまでに広州大会で2個、仁川大会で3個の金メダルを得ており、通算9冠になる。
なお、4年後のアジア大会は孫楊の出身の杭州での開催が決まっており、現在26歳の去就も注目されている。

|

August 20, 2018

池江璃花子はどこまで迫れるか?アジア大会 競泳最多金メダルは10個

競泳の池江璃花子は今大会8種目にエントリーし、昨夜4×100mリレーで最初の金メダルを獲った。
過去、最多獲得の金メダルは10個。
果たして池江はどこまで迫れるか?

 

(1)10個 西側よしみ
1974年:100m、200m自由形、200m個人メドレー、400mリレー、400mメドレーリレー
1978年:100m、200m自由形、200m個人メドレー、400mリレー、400mメドレーリレー
2大会の10種目に出場しすべてに金メダルを獲得した。
現在もアジア大会の最多金メダルの記録となっている。

 

(2)8個 山本貴志
1998年:100m、200mバタフライ、400mメドレーリレー 
2002年:100m、200mバタフライ、400mメドレーリレー 
2006年:100mバタフライ、400mメドレーリレーで金メダルを獲得。2006年の200mバタフライは吴鵬に敗れた。

 

(3)7個 北島康介
2002年:100m、200m平泳ぎ、400mメドレーリレー
2006年:100m、200m平泳ぎ、400mメドレーリレー
ここまでで合計6個の金メダルを獲得。
2010年大会は、個人種目ではメダルを獲れなかったが、メドレーリレーの予選に出場し、通算7個目の金メダルを獲った。決勝のメンバーは入江亮介、立石諒、藤井拓郎、原田蘭丸。

 

(4)6個 入江陵介
2006年:200m背泳ぎ、
2010年:100m、200m背泳ぎ、400mメドレーリレー 
2014年:100m、200m背泳ぎで金メダル獲得。
2018年はまだ金メダルが獲れていない。

 

(5)5個 藤原勝教
まだ近大付属高校に在学中の1986年大会に100m、200m自由形、400mリレー、400mメドレーリレーの4冠を達成。1990年には800mリレーのメンバーとして5個目の金メダルを獲得。が、五輪には縁がなく現役を終えた。
2012年に43歳の若さで亡くなっている。

 

一大会で4個の金メダルを獲った選手には、2014年大会の萩野公介、簗瀬かおり(1986年)、伊藤俊介(1998年)等がいる。

|

April 20, 2017

入江陵介 日本選手権11連覇ならず

先に終了した競泳の日本選手権だが、あまり大きく報道されなかったが実は大きな事件があった。
男子200m背泳ぎで10連覇中だった入江陵介が、萩野公介に敗れ2位、11連覇はならなかったのだ。

高校3年で200mに初めて優勝してから26歳まで10連覇とは、とにかく凄い。
30歳で迎える東京五輪までは競技を続けるのだろうか?

前回のエントリーで、内村航平が体操の全日本で10連覇達成と併せて各競技の全日本での連覇を紹介したが、改めて下記のように加筆する。

10連覇(2007~2016年)
入江陵介 200m背泳ぎ
ロンドン五輪200m背泳ぎ銀、100m背泳ぎ銅メダリスト

9連覇(1957~1965年)
田中聡子 200m背泳ぎ
ローマ五輪女子200m背泳ぎ銅メダリスト

8連覇(1980~1987年)
長崎宏子 200m平泳ぎ

7連覇(1929~1936年)
前畑秀子 200m平泳ぎ
ベルリン五輪200m金メダリスト

●入江陵介 日本選手権200m背泳ぎ10連覇の歩み
Screenshot_20170420124414

○数字は優勝以外の順位。100m背泳ぎは今年も含めて4連覇中。

|

March 29, 2017

派遣標準から見る池江璃花子

日本水連は、競泳の日本選手権(4月13~16日・名古屋市ガイシプラザ)のエントリーを公開した。
今年の日本選手権は、世界選手権(7月・ブダペスト)の代表選考会を兼ねているほか、萩野公介、瀬戸大也は大学を卒業し新たな所属で、東京五輪に向けてのスタートとなる。
また、高校2年になる池江璃花子の泳ぎも注目される。

池江璃花子を初めて見たのは2年前の日本選手権だった。
当時は14歳の中学3年生。
最初の種目の100mバタフライでは予選敗退。
200m自由形では、1分58秒77の中学新記録で3位だったが、4位までがリレーの派遣標準を切り、ロシアのカザンで行われた世界水泳の800mリレーの代表に選ばれた。

50m自由形は3位 25秒28=中学新
100m自由形も3位 54秒76=中学新
50mバタフライでは26秒49で優勝(予選で26秒41の中学新)するも、いずれも派遣標準を超えることはできず、世界水泳7大会ぶりの中学生代表はリレーのみだった。

昨年の日本選手権に池江は、
50m自由形、100m自由形、200m自由形
100mバラフライに出場。
100m自由形は内田美希に次いでの2位だったが、他の3種目は優勝する。
しかし、リオ五輪派遣標準を突破したのは100mバタフライのみだった。

昨年の日本選手権で、男女の自由形の50mから1500m(女子は800m)の5種目で、派遣標準記録を破ったのは、男子200mの萩野公介のただ一人。
日本水連が五輪に際し、派遣標準記録を設定するようになって以来、女子の自由形で一人も破れなかったのは初めてだった。

が、現実にはリオ五輪で50m、100m、200m自由形のいずれにも池江璃花子は出場した。
ところが、その3種目共に日本選手権で自らが出した記録を超えることなく敗退。
リオデジャネイロ五輪で、自己ベストを出したのは100mバタフライのみに終わった。
*下記グラフ参照

Screenshot_20170329122539_1

ここから見えてくるのは、
派遣標準記録を突破していないにもかかわらず、自由形に出場させたのは間違っていた。
もしくは、特に自由形に関しては派遣標準記録が厳し過ぎたのではないのか。

現在、池江は50mバタフライを含めて、長水路で5種目の日本記録を持つ。
一度に5種目の日本記録を持つのは、先に亡くなった山中毅氏と緒方茂生氏についで史上3人目の快挙だ。
特に、リオ五輪で失敗した自由形3種目は、いずれも五輪後に書き換えた。
しかも、その記録は、リオ五輪でも決勝進出相当、悪くても準決勝進出相当の記録である。
これだけのポテンシャルのある選手は、なかなか出て来ないだろう。
東京五輪に向けて、派遣標準記録をどう考えるべきだろうか。

スポーツライターの生島淳氏が以下のようなことを言ったそうだ。
選考会で2位ながらオリンピックで金メダルを獲得した岩崎恭子は、もし当時、派遣標準記録が定められていたら代表に選ばれなかっただろう。中高校生は数か月で飛躍的に記録を伸ばす可能性がある為、派遣標準記録を重視する姿勢はそういった可能性の芽を摘んでしまっている。(中略)
競泳全体の強化という視点から見れば、完璧なシステムには思えない、もっと柔軟な対応をしてもいいのではないか。

|

より以前の記事一覧