サッカー

July 14, 2018

サッカーフランス代表には1938年からアフリカ系の選手がいた

今年のW杯ではドイツが、史上初のグループリーグ敗退という結果に終わった
W杯では初だったが、ユーロ(欧州選手権)では2000年、 2004年と続けてグループリーグ敗退をしたことがある。

1998年のW杯で優勝したフランス代表は、白人系、アフリカ系、アラブ系の選手が集った国際色豊かなチームだった一方、保守派からは国家も歌えない選手がいると攻撃もされた。
この大会でドイツ代表は、準々決勝でクロアチア相手に敗退した。
この2年後、2000年の欧州選手権では1勝もできず、グループリーグで敗退しているのだ。

ドイツ1-1ルーマニア
イングランド1-0ドイツ
ポルトガル3-0ドイツ
総得点1、勝ち点1はロシアW杯よりも悪い。

当時ドイツ代表には、けが人が出て急遽代表入りした39歳のローター・マテウスを始め、30歳以上の選手が何人もいた。
ドイツ生まれの白人選手で固めたチームが、もろくも崩れ去って行った姿はドイツの純血主義問題を浮き彫りにした。
これを受けてドイツサッカー協会は、重い腰を上げて、開放政策を取り始める。

ちょうど2000年1月より、ドイツは従来の血統主義に基づく移民法に変えて出生地迭を採択していた。
ドイツに永住意志のある外国人の両親を持つドイツで生まれた者は、出生時に両親の国籍と同時にドイツ 国籍も自動的に付与されるというものだ。
だが、親がEU域外の国籍を持つ場合、ドイツで生まれた人も23歳までに、いずれかの国籍を選ばなければならない。
例えば、ドイツ国内に住むトルコ系住民は計約295万人と移民のなかで最多だったが、ドイツ国籍を得たのは半分以下の約135万人に過ぎなかった。

その中の一人がメスト·エジルであり、イルカイ·ギュンドアンだった.
この2人は、ともにトルコ国籍は放棄し、ドイツ国籍しか持っていない。(日本語版Wikipediaは誤っているので注意)
にも関わらず、今年5月ロンドンでトルコのエルドアン大統領と面会し、ギュンドアンが持っていたマンチェスター・シティのユニフォームに、トルコ語で「我が大統領に多大なる敬意を」と書かれていた事が大きく報じられて、両選手等はドイツ国内で批判の対象となっていた。
Ozil
トルコ紙に載った写真 左はドイツ生まれながらトルコ代表を選んだジェンク・トスン

そして、ロシアW杯での2人のプレーは精細を欠き、出場時間も少なかった.
すると、メディアはエジルをたたき始めた。
ドイツで生まれ育ち、.9年間もドイツ代表で活躍した選手を「トルコ移民」と。

今や世界的な独裁者であるエルドアンに会ったというのも問題なのだ。

今後、ドイツ代表が移民選手をどう扱っていくのか、気になるところだ。

話は少し変わるが、ヨーロッパの代表チームに何時、初めてアフリカ系の選が入ったか纏めてみた
フランスは、戦前の1938年大会に既にアフリカ系の選手がいるのに対し、ドイツは2002年になって初めてメンバーになっている。

○フランス
ラウル·ディアニュ(故人)
1910年11月10日~2002年11月12日
プランス領ギアナで生まれ
1938年W杯代表

セネガル出身で黒人初のフランス国民議会議員となったブレーズ・ディアニュを父に持ち、のちにセネガル代表の監督も務めた。

○ポルトガル
マリオ·コルナ(故人)
1935年8月6日~2014年2月25日
ポルトガル領モザンビーク生まれ
1966年W杯代表主将

ェウゼビオこそが、最も古い時代に欧州の代表になった選手かと思っていたが、ェウゼビオよりも少し前にこの選手がいた。

○イングランド
ジョン·バーンズ
1963年11月7日ジャマイカ生まれ
1986、90年W杯代表

W杯代表選手と言うとこの選手が初となる。

○ドイツ
ゲーラルド· アサモア
1978年10月3日ガーナ生まれ
2002、06年W杯代表

2002年の日韓大会でアサモアを見たときに、ドイツもここまで来たかと感心したのを覚えている。

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July 09, 2018

クロアチア、セルビア、コソボ・・・東欧のブラジル ユーゴスラビアのその後

サッカーW杯 6月22日の予選リーグE組 スイス対セルビアは2―1でスイスが勝った。
前半5分にセルビアが先制するも、スイスは後半7分、シャカが強烈なミドルシュートを決め、試合終了間際にはシャキリが勝ち越しゴールを決めた。

シャカは、スイス・バーゼル出身だが、両親はコソボより移民してきたアルバニア人。
シャキリは、自身もコソボで生まれたアルバニア人だ。
2人はゴール直後に両手を親指でつないで胸の前で交差させた。
この行為は、アルバニア国旗の双頭のワシを表していると指摘された。
これに対し、25日、FIFA規律委員会は反スポーツ的行為にあたるとし、シャカ、シャキリ等に罰金処分を科した。

どういうことか?

国民の9割以上がアルバニア人であるコソボは、ユーゴスラビア→セルビアに属する自治州だったが、1990年代、セルビアのミロシェビッチ政権の抑圧に対し、多くのアルバニア系住民が欧州各国に渡った。
シャカ、シャキリのようにスイスには20万人ものアルバニア系の住民がおり、スイス、コソボ、アルバニアの3つの国籍を持つ人もいる。
コソボは、2008年にセルビアから独立を宣言する。
日本、米国等世界の多くは承認したが、ロシア、中国等は承認していない。
これに対し、スポーツ界はIOC、FIFAともに正式に加盟を認めている。

リオデジャネイロ五輪の女子柔道52キロ級、金メダルを狙っていた中村美里が準決勝で判定で敗れたのを覚えているだろうか。
このとき中村に勝ったマイリンダ・ケルメンディはコソボ代表。
リオデジャネイロ五輪に、コソボとして初参加し、初めて金メダルを獲得したのがマイリンダ・ケルメンディだった。


かつてバルカン半島にユーゴスラビア(1929年~2003年)という国があった。
「6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」といわれた多民族・多文化国家だった。
そして、球技に圧倒的な強さを見せ、サッカーでも東欧のブラジルといわれた
旧ユーゴスラビアは、W杯には1930年の第1回大会から出場している。
W杯では1930年大会の3位(3位決定戦は行われず)、1962年犬会の4位があるほか1987年のワールドユース(現U20W杯)での優勝がある。

A代表の国際的なタイトルこそないが、元名古屋グランパス監督のドラガン・ストイコビッチらを擁し、元日本代表監督のイビチヤ・オシム監督時代、1990年のイタリア大会では準々決勝で1人少ないながらも優勝候補であったアルゼンチンに延長120分間で引き分けた。

PK戦で敗退したものの、その完成度から1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に挙げられていた。
しかし一方で、国家としてのユーゴスラビアの解体が始まり、1992年のヨーロッパ選手権は、予選を突破したものの、この年にスロベニアとクロアチアがユーゴスラビア連邦を離脱。
更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビア連邦を離脱した。

これを受けてユーゴスラビア連邦軍がサラエボに侵攻を開始。
ボスニア人の監督イビチヤ・オシムは代表監督を辞任する。
国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、国際サッカー連盟FIFA、欧州サッカー連盟UEFAはユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定した。
既にヨーロッパ選手権の開催国であるスウェーデン入りしていたユーゴスラビア代表は、帰国を余儀なくされた。
皮肉にもヨーロッパ選手権はユーゴスラビアの代わりに出場したラウドルップ率いるデンマークが優勝した。

旧ユーゴスラビアから独立した国もサッカーの強豪国として認知されている。
先述のように1998年フランスW杯では、日本とグループリーグで開祖だったクロアチアが3位に入った。
また人口わずか203万人のスロベニアは、2002年日韓W杯に続き、2010年南アフリカW杯本大会へも出場した。
同じく南アフリカ大会に出揚したセルビアは、1998年フランス大会は新ユーゴスラビアとして出場16強入りした。
2006年ドイツ大会はセルビアモンテネグロとして出場、モンテネグロの分離独立後の南アフリカ大会、そしてロシア大会はセルビアとして出場した。

今大会のクロアチアは、2戦連続でPK戦にもつれ込むが、開催国のロシアを2(PK4-3)2で下し、準決勝にコマを進めた。
20年前の初出場だったフランス大会の3位を超え、クロアチアの初優勝を予想する人もいる。

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旧ユーゴスラビアはサッカーだけでなく伝統的に球技に強く、その実績は他国を凌駕していた。分離独立後も個々の国が高い実績を残している。 

@旧ユーゴスラビア諸国の五輪球技のメダル獲得実績(男子のみ)
バスケットボール
2016年 セルビア 銀メダル
1996年 新ユーゴスラビア(セルビアモンテネグロ)銀メダル
1992年 クロアチア 銀メダル
1988年 旧ユーゴスラビア  銀メダル
1984年 旧ユーゴスラビア 銅メダル
1980年 旧ユーゴスラビア 金メダル
1976年 旧ユーゴスラビア 銀メダル
1968年 旧ユーゴスラビア 銀メダル

ハンドボール
2012年 クロアチア 銅メダル
2004年 クロアチア 金メダル
1996年 クロアチア 金メダル
1988年 旧ユーゴスラビア 銅メダル
1984年 旧ユーゴスラビア 金メダル
1972年 旧ユーゴスラビア 金メダル

水球
2016年 セルビア金 クロアチア銀メダル
2012年 クロアチア金 セルビア銅メダル
2008年 セルビア 銅メダル
2004年 セルビアモンテネグロ 銀メダル
2000年 新ユーゴスラビア 銅メダル
1996年 クロアチア 銀メダル
1988年 旧ユーゴスラビア 金メダル
1984年 旧ユーゴスラビア 金メダル
1980年 旧ユーゴスラビア 銀メダル
1968年 旧ユーゴスラビア 金メダル


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June 22, 2018

ワールドカップのテレビ放映権についてざっくりと

サッカーW杯1次リーグH組の日本対コロンビアの後半の平均視聴率は48・7%。前半は平均42・8%。
瞬間最高視聴率は、勝利が決まった瞬間の午後9時52分、53分に驚異の55・4%に達したという。

2戦目のセネガル戦はさらに高視聴率が期待でき…と思うだろうが、日本対セネガルは25日の午前0時。
3戦目のポーランド戦は28日の23時。こちらは試合が終わるころは日付が変わっているだろう。

ロシア大会の組み合わせが決まったことを報じる朝日新聞記事にはこうある。
(2017年12月03日 東京 朝刊)
▼日本の初戦が時間変更 国際サッカー連盟(FIFA)は1日、ワールドカップ(W杯)ロシア大会の1次リーグ組み合わせが決まったことを受けて、6試合の開始予定時間を変更した。来年6月19日にあるH組の日本の初戦、サランスクでのコロンビア戦は午後3時(日本時間午後9時)開始になった。当初の午後6時(同20日午前0時)から変更された。

毎度のことだが、日本の視聴者が見やすいように、高視聴率が取れるように初戦の時間が変わったということ。
当時のFIFAランキングは55位。
決して強豪ではない日本がなぜ優遇されるのか。
巨額の放映権料を支払っているからだ。

では、どの国がいくらくらいの放映権を支払っているだろうか。
かつては、簡単に調べることができた。
が、最近は複雑化しており、単純ではない。

今大会の開催国の選定は、2010年12月2日、FIFAの理事会で決まった。
その際に、2018年大会だけでなく、2022年大会も同時に決められた(開催国はカタール)。
この影響で、多くの国で2大会合わせての放映権が販売された。

テレビ放映権ということばが使われているが、現実にはテレビ、ラジオ、モバイル、ネットの4媒体があり、Media Rightsが正しい。

例えば日本の場合、FIFAから権利を買うのは電通。
電通がJC(ジャパンコンソーシアムJapan Consortium NHKと民放との放送共同体)。に転売している。
キー局の中でもどの媒体で使えるかは異なり、NHK、NTV、テレ朝、TBS、テレ東はモバイルを除く3媒体、フジテレビはテレビだけ、モバイルは電通だけが持っている。

そして、ロシア大会の日本の権利は総額約600億円。
今大会に出場しない米国が最も高額で、次いで日本。
3番目がやはり出場しない中国の順だ。

中国の存在感というのは、80年代から1994年頃までの日本にそっくりだ。
Houeiken


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June 14, 2018

ワールドカップ出場32か国 最多はやっぱりadidas

FIFA W杯ロシア大会が間もなく開幕する。参加する32カ国のウエアのブランドは以下の通りであると判った。

日本代表が本大会で着るユニホームは、今回もアディダス。
日本が初出場を決めた1998年フランス大会はアシックスだったが、2002年、06年、10年、14年、18年年と5大会続けてアディダスである。

1978年4月から1999年までの20年間は、デサント、プーマグループ、アシックスの3社が、日本男子代表・女子代表、五輪代表・ユニバーシアード代表、ユース代表の3つのカテゴリーを、1年ごとの持ち回りで提供していた。
(デサントは当時アディダスの総代理店を務めており、ブランドはadidas)

2002年の日韓W杯を控えて、1999年からの8年間について日本サッカー協会は入札を決め、アディダス、プーマグループ、アシックスに加えてナイキも参入した。
そして、アディダスが応札した。
アディダスはその前年2月に、日本法人のアディダスジャパンを設立し、27年続いていたデサントとのライセンス契約を終了させていた。
 
ちなみに新生アディダスの日本代表の最初のユニホームは、1999年ナイジェリアで行われたWユース(当時)。
そう、あのトルシエの采配の下準優勝したあの大会だ。


アディダス
エジプト、アルゼンチン、ベルギー、ドイツ、イラン、日本、コロンビア、モロッコ、メキシコ、ロシア、スウェーデン、スペイン(12カ国)

ナイキ
オーストラリア、ブラジル、イングランド、フランス、クロアチア、ナイジェリア、ポーランド、ポルトガル、サウジアラビア、韓国(10か国)

ニューバランス
コスタリカ、パナマ

プーマ
スイス、セネガル、セルビア、ウルグアイ

アンブロ
ペルー

Erreà
アイスランド

ヒュンメル
デンマーク

Uhlsport
チュニジア

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May 01, 2018

幻の1986年ワールドカップ日本開催計画

戦後W杯を2回開催した国は3カ国しかない。
ブラジルは1950年と前回2014年、この間64年。
ドイツは1974年に西ドイツとして、2006年にドイツとして開催し、この間32年。
メキシコは1970年と1986年に2度開催しており、この間は16年。
決勝トーナメントの常連とはいえ、なぜメキシコは短い間に2回のW杯が開催できたのか。

1986年のW杯はコロンビア開催で決まっていたのだが、開催返上が余儀なくされた。
開催が決まったのは開催から遡ること12年前の1974年のFIFA総会だった。
当時の本大会出場国は16カ国、ところが市場の拡大をめざすFIFAは1982年のスペイン大会から出場国を24カ国に拡大することを決めた。

政治的にも、経済的にも不安定なコロンビアに24か国の参加するこの地球規模のイベントは、負担が大きすぎた。
1982年11月「24カ国でのW杯開催は不可能」と声明を出し、返上してしまった。(FIFAが誘導したとの説もある)
同じ米大陸の中という条件から、カナダ、メキシコ、アメリカが再立候補し、最終的に1983年5月メキシコでの2度目の開催が決まった。
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▲2回のW杯の決勝の舞台となったアステカスタジアム

この1986年大会だが、実は、コロンビアでの開催が決まる前に、日本開催で動いていたことがあった。
1970年のメキシコ大会に視察に来ていた日本サッカー協会幹部に、スタンレー・ラウスFIFA会長(故人)が、16年後のW杯の日本開催を打診している。

1996年5月10日の朝日新聞に次のような記事がある。

「世界サッカー誘致を--16年先ねらい検討へ」。そんな文字が新聞各紙に躍ったのは、197082日のことだ。ワールドカップ(W杯)日本招致の構想は、今から26年も前に浮上した。同年のW杯メキシコ大会を訪れた当時の日本サッカー協会の野津謙会長が、国際サッカー連盟(FIFA)のスタンレー・ラウス会長(イギリス=イングランド)から打診を受けた。「日本は東京五輪を開いた。W杯を開催する気があるなら、86年にやってはどうか」それを受け、帰国した野津会長が日本体育協会で会見。「日本がもっと強くなければいけないし、資金などの難問がある。しかし目標をぐっと高く置き、86年のW杯を日本で開催したい」と語った。とはいえ、当時の日本にはW杯を開催する土壌は何もなかった。W杯の基準に見合う競技場はゼロ。練習場もない。サッカー人気も、実力も開催国にふさわしいとはいいがたかった。

野津謙は、1969年にFIFA理事に就任している。
2003年に小倉純二サッカー協会副会長がFIFA理事に当選するまで、長い空白があったことを考えれば、この時代にFIFAの要職に就いていた野津氏の政治力はかなりのものがあったと推測されよう。

しかし、1976年、同郷の長沼健氏(故人)らがクーデターを起こし野津は会長の座を追われてしまった。

1986年のW杯が日本で開催されていたら・・・
1986年メキシコW杯、6月22日、準々決勝のアルゼンチン対イングランド戦はW杯史上に残る。
マラドーナの「神の手ゴール」そしてその僅か4分後の「5人抜き」。
灼熱のアステカ・スタジアムの伝説は東京の国立競技場でも起こりえたのだろうか…。

2011年に小倉純二氏が定年によりFIFAを去ると、しばらく日本人はFIFAの中枢にいなかったが、日本サッカー協会の田嶋幸三会長が2013年から理事を務めている。

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November 03, 2017

サッカー カタルーニャ代表のはなし

スペインのカタルーニャ州が、スペインから独立しようという動きがあることは、ご存じだろう。
カタルーニャ州の州都、バルセロナは1992年の夏季五輪の開催地であり、サッカーのFCバルセロナのホームタウンである。

カタルーニャ州が、スペインから独立したら、スペイン・プロサッカーリーグは、カタルーニャ州内のクラブがリーグに所属し続けることは認めないとしている。
スペインのスポーツ法によると、ペインリーグに所属できるのはスペインとアンドラのチームのみと明記されているのだ。

カタルーニャ州のクラブでは、FCバルセロナのほかに、RCDエスパニョールとジローナFCがスペイン1部リーグに属している。
現在は、リオネル・メッシらを擁するバルセロナだが、スペインリーグを脱退すれば、世界最高峰の選手たちを引き止めることはできなくなり、中規模のクラブになっていくというのが、大方の見方だ。


一方で、サッカー・カタルーニャ代表も存在する。
僕がカタルーニャ代表があると知ったのは、1998年の12月のことだ。
1998年は、フランスW杯が開かれた。
日本代表が初出場した大会だが、この大会のスペイン代表は、ナイジェリア代表に2-3で敗れ、1次リーグ突破はならなかった。

ところが、その年の暮れ、エスタディ・デ・モンジュイックで行なわれた、カタルーニャ代表対ナイジェリア代表の試合は、5-0でカタルーニャ代表が大勝した。

エスタディ・デ・モンジュイックとは、1992年に行われたバルセロナオリンピックのメインスタジアムであるが、「カタルーニャ代表はスペイン代表より強い」カタルーニャの市民の鼻息は荒かった。

バルセロナのあるカタルーニャ州は、歴史的にスペイン中部のカスティーリャ地方とは異なる文化を擁したが、18世紀初頭にマドリードの王室によって支配された。
19世紀後半以降工業などの発達で栄え、それに伴い文化芸術活動も盛んになる。
アントニオ・ガウディはまさにこの時代の人間である。

1936年、ナチスのベルリン五輪に対抗し、バルセロナで人民オリンピックが開催されようとする数日前にスペイン内戦が勃発、フランコ将軍率いる反乱軍が3年かかってスペイン共和国政府を倒し、これ以降スペイン全土でスペイン語のみが公用語とされた。
カタルーニャ独自のことばであるカタルーニャ語は、使用が大幅に制限された経緯がある。

フランコの没後1978年に新憲法が制定され、カタルーニャ語はカタルーニャ自治州の公用語とされ、短期間に再び社会の幅広い層で使われるようになっている。
法律上は、スペイン国内の自治州でしかないのに、カタルーニャにサッカーの独立した「代表チ-ム」があるなんて…。

スペインでは、カタルーニャに限らず、スペイン国内のいち地方(州)であるバスク、アンダルシア、バレンシア、アストリアス、バレアレの計6地域が「代表チーム」を選抜し、正式な他国の代表チ-ムを招いて国際試合を行っている。

もっともFIFAにもUEFAにも加盟していないため、W杯やユーロに出場することはできない。

海外のしかも強豪代表チームをカタルーニャサッカー協会が、初めて招待したのは1997年。
以後、カタルーニャ代表の試合は当地の年末の恒例行事となっている。

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July 09, 2017

SONYに代わってHISENSE ついに日本企業がいなくなったFIFAパートナー

先に、マクドナルドが、IOCのTOPプログラムからの撤退を表明したことは紹介した。
なんとマクドナルドは、IOCに続いてFIFAのパートナーも、契約満了を待たずに終了しようとしている。

米フォーブス誌によると、マクドナルドはFIFAに対し、1年に1000〜2500万ドルを支払う契約を2022年のカタールW杯までしている。
これを、マクドナルドが契約を自らから打ち切りとすると、1億ドル以上の違約金を支払わなければならないも言う。

念のためにFIFAのサイトを見に行くと、確かにパートナー企業のロゴからマクドナルドが消えている。
先週の日曜日、7月2日に決勝 ドイツ対チリが行われたFIFAコンフェデレーション杯のロシアのスタジアムには、マクドナルドのロゴが確かに踊っていたにも関わらずだ。

Fifa
▲FIFAの公式サイトからMcdonaldのロゴがなくなっている。一方、 HISENSEはまだない。

●現在のFIFAのスポンサー企業 
現代/起亜自動車 (韓国)
アディダス (ドイツ)
バドワイザー(Anheuser Busch InBevベルギー)
ガスプロム(ロシア)
万達Group(中国)
カタール航空(カタール)
ハイセンス(中国)

以上が現在のFIFAパートナーだが、一時期と比べると大きく変わった。
現代/起亜、アディダス、バドワイザーはFIFAにとって古い友人であるが、下記の4社はなじみがない。
簡単に紹介しよう。

ガスプロム(ロシア)
ロシアの企業で、天然ガスの生産・供給において世界最大の企業。ロシア政府が株式の半数を持つ。
2018年ロシア大会までの1期のみ。

万達Group(中国)
サッカーから映画、不動産まで手掛ける中国のコングマット企業。
中国リーグ大連万達の親会社。

カタール航空(カタール)
エミレーツ航空に代わって入った世界有数の航空会社。2022年のカタールW杯まで。

ハイセンス(中国)
中国の家電メーカー。特にテレビの生産高は、世界で三指に入る。
ロシアコンフェデレーション杯にて、突如ロゴが現れびっくりした。

Hisense

その一方で、エミレーツ航空、ソニー、カストロール、コンチネンタル、ジョンソンエンドジョンソンなどがFIFAから離れていった。

中国企業が2社並ぶ現在のFIFAパートナーに対し、日本企業はついに1社もなくなった。
特にソニーは、ソニーは2005年4月に、2007~2014年の8年で330億円という大型契約をしていたが、本社の構造改革の優先を理由に、一度も更新されることなく去ることになった。

ソニー以外に下記のような日本企業がFIFAパートナーを務めていた。
ご存知のように日本代表のW杯初出場は1998年のフランス大会。
それよりも16年も前からFIFAとは蜜月にあったが、ついになくなった。
一方の中国のW杯出場は2002年の1度のみ。
代表の実力は、国際レベルにないものの、企業の金満ぶりは凄い。
かつての日本企業を見るかのようだ。

富士フィルム (1982年~2006年)
東芝 (2002~2006年)
日本ビクター (1982年~2002年)
富士ゼロックス (2002年)
NTT (2002年)
キャノン (1982年~1998年)
セイコー (1982年~1986年)

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June 09, 2016

オリンピックのサッカーの影を薄くするEURO

面白い資料がある。
AP通信による2004年のスポーツ10大ニュースだ。

オリンピックイヤーのこの年、1位になったのは「サッカーEURO2004 ギリシャ初制覇」である。
もちろん、アテネオリンピック関連も2位、5位、6位、8位と4項目が入っているのだが、1位はEUROだった。
EUROとは、サッカーの欧州選手権のことで、4年に一度夏季オリンピックと同じ年に開催されている。
いわば、サッカーW杯のヨーロッパ版で、1960年に第1回大会がフランスで開かれた。
当初参加国は4カ国だったが、8カ国さらには16カ国と拡大し、今年から24か国に拡大される。

その注目度もW杯に劣らず、内容はW杯をも凌ぐとも言われている。
1984年頃までは、日本ではサッカー専門誌では取り上げられるものの、一般紙にはほとんど登場しなかったが、徐々に注目を集めるようになり、2004年からは地上波での放送も開始され、すっかりおなじみになった。

2004年はポルトガルで開催され、決勝はギリシャが地元ポルトガルを下し、初制覇を遂げた。
大会前ギリシャの優勝なんて誰も想像しなかった。これが、6月のこと。
ギリシャはすっかり盛り上がってしまった。
言わばギリシャ国民は満腹状態で8月のオリンピックを迎えることになった。
そのためオリンピックを上の空で見ていた人も多かった。

特にサッカーはガラガラ、最終日を前に、平均1万人強の観客しか集まらず「すべてのギリシャのサッカーファンは、これから行われる試合を見に来ないといけない」
ギリシャサッカー協会のガガツィス会長が3位決定戦と決勝戦を前に、こんな異例の呼びかけをしたほどだ。

ヨーロッパの人は、オリンピックのサッカーにはあまり関心がない。
最近6大会のサッカー1試合当たりの平均観客数は以下のようになる。

1992年 バルセロナ五輪 14571人
1996年 アトランタ五輪 38242人
2000年 シドニー五輪 32018人
2004年 アテネ五輪 12544人
2008年 北京五輪 43883人
2012年 ロンドン五輪 48785人

ヨーロッパで開催されたバルセロナ、アテネ大会はアトランタやシドニー大会の半分から3分の1程度でしかない。
ただし、バルセロナオリンピックは地元スペインが3-2でポーランドを下し優勝した。
舞台はカンプノウスタジアム、ファンカルロス国王、ソフィア女王、アントニオ・サマランチIOC会長も詰め掛け95,000人の大観衆とともに金メダルに酔った。

 ●AP通信(米)による10大ニュース●

① サッカーEURO2004:ギリシャ初制覇
② アテネオリンピック開催
③ ツール・ド・フランス:アームストロング(米)が史上初の6連覇。
④ F1シューマッハー(独)が圧倒的な強さで年間総合優勝
⑤ アテネオリンピック過去最多のドーピング違反
⑥ アテネオリンピック水泳のフェルプス(米)が金6個を含む8メダル
⑦ 女子テニス全仏はミスキナ、全英はシャラポワ、 全米はクズネツォワとロシア勢が3勝
⑧ アテネオリンピック 中国が米国に次ぐ32個の金メダルを獲得する躍進
⑨ 男子テニスフェデラー(スイス)が四大大会のうち3大会を制覇
⑩ サッカー英プレミアリーグアーセナルが無敗でリーグ制覇

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April 15, 2016

ベルリン五輪以来!日本サッカー80年ぶりスウェーデンと対戦

リオデジャネイロ五輪の男子サッカー日本代表は、1次リーグでナイジェリア、コロンビア、スウェーデンと対戦する。五輪でスェーデンとの対戦するのは1936年のベルリン五輪以来80年ぶりだ。
日本とスウェーデンの間にはこんな因縁がある。


まだ戦争が終わったばかりの1949年、日本初のノーベル賞が湯川秀樹博士に贈られた。
受賞のためストックホルムを訪れた湯川秀樹博士の記者会見の際、スウェーデンの記者が博士にサッカーのボールを手渡した。
博士はそれをヘディングする格好をして拍手を浴びたという。
スウェーデン人にとって、日本についての最も鮮明な記憶は、1936年のベルリン五輪でのサッカーの試合であることのエピソードである。

 
「ヤパネー、ヤパネー、ヤパネー、日本人が飛んでくる…」

スウェーデンでは、「日本」の国名を3度重ねた言葉が生きている。

日本人のニュースを伝える時や、予想もしなかった出来事が起きた時に語られる言葉だという。
1936年のベルリン五輪で生まれた言葉だ。


1ベルリン五輪は、ナチス政権下でドイツの国威発揚に利用された大会として、今尚ヨーロッパの人に語り継がれている大会だが、スウェーデン人にとっては、忘れられない思い出もあるようだ。

1912年にストックホルム五輪を開催し、北欧のスポーツ大国を自認していたスウェーデン。
1924年のパリ五輪のサッカーでは銅メダルを獲得し、ベルリン五輪でも優勝候補の一角に挙げられていた。
まさか、極東からシベリア鉄道で2週間かけて渡欧して来た日本人に負けるとは、誰も思わなかったのだ。

前半、圧倒的にスウェーデンに攻められる日本。24分、37分に、ゴールを許し、前半終了。
後半、2点のリードに安心したかのようなスウェーデンから日本は3点を挙げ、歴史に残る逆転劇を演じてみせた。
(まるでリオ五輪予選の日韓戦のような内容だ)

当時、ベルリンの新聞には

「日本はこの試合でサッカーの醍醐味を味わわせてくれた。高い技術的プレーを知っているはずのベルリン市民も、日本チームが示した極めて細かいプレーに感嘆した。
加茂兄弟は見事な左翼を形成し、CF川本の技巧は惚れ惚れするほどだった。スウェーデンと日本の攻撃を比べると、遥かに日本の方が近代的で優勢だった」

と評された。

日本のサッカーの恩人といわれるデットマル・クラマー氏(故人)も1960年の初来日のとき、少年のときに、ベルリン五輪の逆転劇を聞いたのが日本への強い興味を持つきっかけだと語ったこともある。
スウェーデンではこの敗戦は語り継がれているようで、若い人にも随分むかし、日本に負けたことがあるという事実は多く知られている。

2002年のW杯開催前に、テストマッチが日本・スウェーデン間で行なわれ、スウェーデンが先制するも、中田のゴールで日本が追いつき引き分けた。
W杯の本番、決勝トーナメント1回戦で日本がトルコに敗れず、スウェーデンがセネガルに敗れなければ、日本対スウェーデンの対決が66年振りに実現するはずだった。

五輪におけるスウェーデン代表は過去に9回出場し、金メダル1(1948年)、銅メダル2(1924・52年)の実績を持つ強豪だが、1992年のバルセロナ五輪を最後に五輪出場は遠ざかっていた。
しかし、昨年開催されたU-21欧州選手権で優勝し五輪の舞台に戻って来た。
 
80年ぶりの日本対スウェーデンは、アジア王者対欧州王者の対決でもある。


●1936年ベルリン五輪 ベスト8

日本 3-2 スウェーデン
日本 0―8 イタリア
日本代表GK:佐野理平、FB:堀江忠男、竹内悌三、HB:立原元夫、種田孝一、金容植、FW:松永行、右近徳太郎、川本泰三、加茂健、加茂正五

FBの堀江忠男さんは当時早大在学中、卒業後は朝日新聞勤務ののち早稲田大学政治経済学部の教授に就任。早稲田大学サッカー部監督を務め、釜本邦茂氏、森孝慈氏(政経学部卒)、西野朗氏、岡田武史氏(政経学部卒)らを育てた。

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June 24, 2015

新国立競技場とどちらが凄い?当初の見込みから11倍の工事費がかかったモントリオール・オリンピックスタジアム

FIFA女子W杯がカナダで開催されている。
24か国が参加し、以下の6つの会場で熱戦が繰り広げられている。

バンクーバー(BCプレイス)
エドモントン(コモンウェルス・スタジアム)
ウィニペグ(ウィニペグ・スタジアム)
オタワ(フランク・クレア・スタジアム)
モントリオール(オリンピック・スタジアム)
モンクトン(モンクトン・スタジアム)

これらの競技場の中に、2つオリンピックのメインスタジアムだった競技場がある。
ひとつは、バンクーバーのBCプレイス、もう一つは、モントリオールのオリンピック・スタジアムだ。

モントリオールオリンピックの開催は1976年。
商業オリンピックとして、オリンピック開催が黒字になるようになるのは1984年のロサンゼルスオリンピックから。
モントリオールオリンピックの時代は、まだ国家の一大事業だった時代だ。

オリンピック・スタジアムは、カナダ初のドームスタジアムを造るとして1973年に工事が始まった。
その当時の予算は1.34億カナダドル。
ところが、ストライキや工事の遅延がこれらのコストを上昇させた。
スタジアムの竣工は1976年の7月17日。この日までに2.64億カナダドルを費やした。
7月17日というのは、モントリオールオリンピックの開会式の日。
自慢の屋根も、目玉だったタワーも未完成のまま、ぶっつけ本番で開会式を迎えたのだ。

大幅に予算を上回り、その投資を回収するために、ケベック州政府はオリンピック開幕前の1976年5月から特別たばこ税を導入することにした。
気の毒なケベック州の住民は、なんとオリンピック閉幕の30年後の2006年11月まで、8%上乗せされたたばこの代金を支払い続けた。
この時点で7.7億カナダドルの工費を要し、さらに2006年から現在までのスタジアムの総工費は、14.7億カナダドルにまで膨れ上がることになる
当初の予算の約11倍だ。
14.7億カナダドルは現在のレートに直すと約1477億円。

スタジアム自体は、オリンピックの翌年 1977年にMLBのモントリオール・エクスポスの本拠地として生まれ変わった。
1988年になって、簡易開閉式の屋根が設置され、オリンピックから12年経ってカナダ初のドームスタジアムとなったが、老朽化が進み、2004年にエクスポスはモントリオールを離れ、ワシントンDCに移り、ワシントンナショナルズとして再出発した。
ケベック州のたばこ特別税による借金返済は2006年まで続いていたわけだから、ケベック州の住民はエクスポスが移転してからも税金を支払い続けたことになる。

ちなみに23年のモントリオール・エクスポスの活動期間中、地区優勝が1回(1981年)あるだけで、Wシリーズ優勝はもちろん、リーグ優勝も一度もない。

ロンドンのウェンブリー・スタジアム、モントリオールのオリンピック・スタジアム、シンガポールのナショナルスタジアム
人類史上、この3つのスタジアムが最も工事費が掛かっているだろうと思われるが、わが新国立競技場はその2~3倍の総工費を見込んでいるのだ。

Montre1976
▲モントリオールオリンピックスタジアム 70年代にこんな競技場造ろうと思ったらそりゃ金がかかる。

Montre2
▲屋根を締めた状態


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