サッカー

November 03, 2017

サッカー カタルーニャ代表のはなし

スペインのカタルーニャ州が、スペインから独立しようという動きがあることは、ご存じだろう。
カタルーニャ州の州都、バルセロナは1992年の夏季五輪の開催地であり、サッカーのFCバルセロナのホームタウンである。

カタルーニャ州が、スペインから独立したら、スペイン・プロサッカーリーグは、カタルーニャ州内のクラブがリーグに所属し続けることは認めないとしている。
スペインのスポーツ法によると、ペインリーグに所属できるのはスペインとアンドラのチームのみと明記されているのだ。

カタルーニャ州のクラブでは、FCバルセロナのほかに、RCDエスパニョールとジローナFCがスペイン1部リーグに属している。
現在は、リオネル・メッシらを擁するバルセロナだが、スペインリーグを脱退すれば、世界最高峰の選手たちを引き止めることはできなくなり、中規模のクラブになっていくというのが、大方の見方だ。


一方で、サッカー・カタルーニャ代表も存在する。
僕がカタルーニャ代表があると知ったのは、1998年の12月のことだ。
1998年は、フランスW杯が開かれた。
日本代表が初出場した大会だが、この大会のスペイン代表は、ナイジェリア代表に2-3で敗れ、1次リーグ突破はならなかった。

ところが、その年の暮れ、エスタディ・デ・モンジュイックで行なわれた、カタルーニャ代表対ナイジェリア代表の試合は、5-0でカタルーニャ代表が大勝した。

エスタディ・デ・モンジュイックとは、1992年に行われたバルセロナオリンピックのメインスタジアムであるが、「カタルーニャ代表はスペイン代表より強い」カタルーニャの市民の鼻息は荒かった。

バルセロナのあるカタルーニャ州は、歴史的にスペイン中部のカスティーリャ地方とは異なる文化を擁したが、18世紀初頭にマドリードの王室によって支配された。
19世紀後半以降工業などの発達で栄え、それに伴い文化芸術活動も盛んになる。
アントニオ・ガウディはまさにこの時代の人間である。

1936年、ナチスのベルリン五輪に対抗し、バルセロナで人民オリンピックが開催されようとする数日前にスペイン内戦が勃発、フランコ将軍率いる反乱軍が3年かかってスペイン共和国政府を倒し、これ以降スペイン全土でスペイン語のみが公用語とされた。
カタルーニャ独自のことばであるカタルーニャ語は、使用が大幅に制限された経緯がある。

フランコの没後1978年に新憲法が制定され、カタルーニャ語はカタルーニャ自治州の公用語とされ、短期間に再び社会の幅広い層で使われるようになっている。
法律上は、スペイン国内の自治州でしかないのに、カタルーニャにサッカーの独立した「代表チ-ム」があるなんて…。

スペインでは、カタルーニャに限らず、スペイン国内のいち地方(州)であるバスク、アンダルシア、バレンシア、アストリアス、バレアレの計6地域が「代表チーム」を選抜し、正式な他国の代表チ-ムを招いて国際試合を行っている。

もっともFIFAにもUEFAにも加盟していないため、W杯やユーロに出場することはできない。

海外のしかも強豪代表チームをカタルーニャサッカー協会が、初めて招待したのは1997年。
以後、カタルーニャ代表の試合は当地の年末の恒例行事となっている。

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July 09, 2017

SONYに代わってHISENSE ついに日本企業がいなくなったFIFAパートナー

先に、マクドナルドが、IOCのTOPプログラムからの撤退を表明したことは紹介した。
なんとマクドナルドは、IOCに続いてFIFAのパートナーも、契約満了を待たずに終了しようとしている。

米フォーブス誌によると、マクドナルドはFIFAに対し、1年に1000〜2500万ドルを支払う契約を2022年のカタールW杯までしている。
これを、マクドナルドが契約を自らから打ち切りとすると、1億ドル以上の違約金を支払わなければならないも言う。

念のためにFIFAのサイトを見に行くと、確かにパートナー企業のロゴからマクドナルドが消えている。
先週の日曜日、7月2日に決勝 ドイツ対チリが行われたFIFAコンフェデレーション杯のロシアのスタジアムには、マクドナルドのロゴが確かに踊っていたにも関わらずだ。

Fifa
▲FIFAの公式サイトからMcdonaldのロゴがなくなっている。一方、 HISENSEはまだない。

●現在のFIFAのスポンサー企業 
現代/起亜自動車 (韓国)
アディダス (ドイツ)
バドワイザー(Anheuser Busch InBevベルギー)
ガスプロム(ロシア)
万達Group(中国)
カタール航空(カタール)
ハイセンス(中国)

以上が現在のFIFAパートナーだが、一時期と比べると大きく変わった。
現代/起亜、アディダス、バドワイザーはFIFAにとって古い友人であるが、下記の4社はなじみがない。
簡単に紹介しよう。

ガスプロム(ロシア)
ロシアの企業で、天然ガスの生産・供給において世界最大の企業。ロシア政府が株式の半数を持つ。
2018年ロシア大会までの1期のみ。

万達Group(中国)
サッカーから映画、不動産まで手掛ける中国のコングマット企業。
中国リーグ大連万達の親会社。

カタール航空(カタール)
エミレーツ航空に代わって入った世界有数の航空会社。2022年のカタールW杯まで。

ハイセンス(中国)
中国の家電メーカー。特にテレビの生産高は、世界で三指に入る。
ロシアコンフェデレーション杯にて、突如ロゴが現れびっくりした。

Hisense

その一方で、エミレーツ航空、ソニー、カストロール、コンチネンタル、ジョンソンエンドジョンソンなどがFIFAから離れていった。

中国企業が2社並ぶ現在のFIFAパートナーに対し、日本企業はついに1社もなくなった。
特にソニーは、ソニーは2005年4月に、2007~2014年の8年で330億円という大型契約をしていたが、本社の構造改革の優先を理由に、一度も更新されることなく去ることになった。

ソニー以外に下記のような日本企業がFIFAパートナーを務めていた。
ご存知のように日本代表のW杯初出場は1998年のフランス大会。
それよりも16年も前からFIFAとは蜜月にあったが、ついになくなった。
一方の中国のW杯出場は2002年の1度のみ。
代表の実力は、国際レベルにないものの、企業の金満ぶりは凄い。
かつての日本企業を見るかのようだ。

富士フィルム (1982年~2006年)
東芝 (2002~2006年)
日本ビクター (1982年~2002年)
富士ゼロックス (2002年)
NTT (2002年)
キャノン (1982年~1998年)
セイコー (1982年~1986年)

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June 09, 2016

オリンピックのサッカーの影を薄くするEURO

面白い資料がある。
AP通信による2004年のスポーツ10大ニュースだ。

オリンピックイヤーのこの年、1位になったのは「サッカーEURO2004 ギリシャ初制覇」である。
もちろん、アテネオリンピック関連も2位、5位、6位、8位と4項目が入っているのだが、1位はEUROだった。
EUROとは、サッカーの欧州選手権のことで、4年に一度夏季オリンピックと同じ年に開催されている。
いわば、サッカーW杯のヨーロッパ版で、1960年に第1回大会がフランスで開かれた。
当初参加国は4カ国だったが、8カ国さらには16カ国と拡大し、今年から24か国に拡大される。

その注目度もW杯に劣らず、内容はW杯をも凌ぐとも言われている。
1984年頃までは、日本ではサッカー専門誌では取り上げられるものの、一般紙にはほとんど登場しなかったが、徐々に注目を集めるようになり、2004年からは地上波での放送も開始され、すっかりおなじみになった。

2004年はポルトガルで開催され、決勝はギリシャが地元ポルトガルを下し、初制覇を遂げた。
大会前ギリシャの優勝なんて誰も想像しなかった。これが、6月のこと。
ギリシャはすっかり盛り上がってしまった。
言わばギリシャ国民は満腹状態で8月のオリンピックを迎えることになった。
そのためオリンピックを上の空で見ていた人も多かった。

特にサッカーはガラガラ、最終日を前に、平均1万人強の観客しか集まらず「すべてのギリシャのサッカーファンは、これから行われる試合を見に来ないといけない」
ギリシャサッカー協会のガガツィス会長が3位決定戦と決勝戦を前に、こんな異例の呼びかけをしたほどだ。

ヨーロッパの人は、オリンピックのサッカーにはあまり関心がない。
最近6大会のサッカー1試合当たりの平均観客数は以下のようになる。

1992年 バルセロナ五輪 14571人
1996年 アトランタ五輪 38242人
2000年 シドニー五輪 32018人
2004年 アテネ五輪 12544人
2008年 北京五輪 43883人
2012年 ロンドン五輪 48785人

ヨーロッパで開催されたバルセロナ、アテネ大会はアトランタやシドニー大会の半分から3分の1程度でしかない。
ただし、バルセロナオリンピックは地元スペインが3-2でポーランドを下し優勝した。
舞台はカンプノウスタジアム、ファンカルロス国王、ソフィア女王、アントニオ・サマランチIOC会長も詰め掛け95,000人の大観衆とともに金メダルに酔った。

 ●AP通信(米)による10大ニュース●

① サッカーEURO2004:ギリシャ初制覇
② アテネオリンピック開催
③ ツール・ド・フランス:アームストロング(米)が史上初の6連覇。
④ F1シューマッハー(独)が圧倒的な強さで年間総合優勝
⑤ アテネオリンピック過去最多のドーピング違反
⑥ アテネオリンピック水泳のフェルプス(米)が金6個を含む8メダル
⑦ 女子テニス全仏はミスキナ、全英はシャラポワ、 全米はクズネツォワとロシア勢が3勝
⑧ アテネオリンピック 中国が米国に次ぐ32個の金メダルを獲得する躍進
⑨ 男子テニスフェデラー(スイス)が四大大会のうち3大会を制覇
⑩ サッカー英プレミアリーグアーセナルが無敗でリーグ制覇

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April 15, 2016

ベルリン五輪以来!日本サッカー80年ぶりスウェーデンと対戦

リオデジャネイロ五輪の男子サッカー日本代表は、1次リーグでナイジェリア、コロンビア、スウェーデンと対戦する。五輪でスェーデンとの対戦するのは1936年のベルリン五輪以来80年ぶりだ。
日本とスウェーデンの間にはこんな因縁がある。


まだ戦争が終わったばかりの1949年、日本初のノーベル賞が湯川秀樹博士に贈られた。
受賞のためストックホルムを訪れた湯川秀樹博士の記者会見の際、スウェーデンの記者が博士にサッカーのボールを手渡した。
博士はそれをヘディングする格好をして拍手を浴びたという。
スウェーデン人にとって、日本についての最も鮮明な記憶は、1936年のベルリン五輪でのサッカーの試合であることのエピソードである。

 
「ヤパネー、ヤパネー、ヤパネー、日本人が飛んでくる…」

スウェーデンでは、「日本」の国名を3度重ねた言葉が生きている。

日本人のニュースを伝える時や、予想もしなかった出来事が起きた時に語られる言葉だという。
1936年のベルリン五輪で生まれた言葉だ。


1ベルリン五輪は、ナチス政権下でドイツの国威発揚に利用された大会として、今尚ヨーロッパの人に語り継がれている大会だが、スウェーデン人にとっては、忘れられない思い出もあるようだ。

1912年にストックホルム五輪を開催し、北欧のスポーツ大国を自認していたスウェーデン。
1924年のパリ五輪のサッカーでは銅メダルを獲得し、ベルリン五輪でも優勝候補の一角に挙げられていた。
まさか、極東からシベリア鉄道で2週間かけて渡欧して来た日本人に負けるとは、誰も思わなかったのだ。

前半、圧倒的にスウェーデンに攻められる日本。24分、37分に、ゴールを許し、前半終了。
後半、2点のリードに安心したかのようなスウェーデンから日本は3点を挙げ、歴史に残る逆転劇を演じてみせた。
(まるでリオ五輪予選の日韓戦のような内容だ)

当時、ベルリンの新聞には

「日本はこの試合でサッカーの醍醐味を味わわせてくれた。高い技術的プレーを知っているはずのベルリン市民も、日本チームが示した極めて細かいプレーに感嘆した。
加茂兄弟は見事な左翼を形成し、CF川本の技巧は惚れ惚れするほどだった。スウェーデンと日本の攻撃を比べると、遥かに日本の方が近代的で優勢だった」

と評された。

日本のサッカーの恩人といわれるデットマル・クラマー氏(故人)も1960年の初来日のとき、少年のときに、ベルリン五輪の逆転劇を聞いたのが日本への強い興味を持つきっかけだと語ったこともある。
スウェーデンではこの敗戦は語り継がれているようで、若い人にも随分むかし、日本に負けたことがあるという事実は多く知られている。

2002年のW杯開催前に、テストマッチが日本・スウェーデン間で行なわれ、スウェーデンが先制するも、中田のゴールで日本が追いつき引き分けた。
W杯の本番、決勝トーナメント1回戦で日本がトルコに敗れず、スウェーデンがセネガルに敗れなければ、日本対スウェーデンの対決が66年振りに実現するはずだった。

五輪におけるスウェーデン代表は過去に9回出場し、金メダル1(1948年)、銅メダル2(1924・52年)の実績を持つ強豪だが、1992年のバルセロナ五輪を最後に五輪出場は遠ざかっていた。
しかし、昨年開催されたU-21欧州選手権で優勝し五輪の舞台に戻って来た。
 
80年ぶりの日本対スウェーデンは、アジア王者対欧州王者の対決でもある。


●1936年ベルリン五輪 ベスト8

日本 3-2 スウェーデン
日本 0―8 イタリア
日本代表GK:佐野理平、FB:堀江忠男、竹内悌三、HB:立原元夫、種田孝一、金容植、FW:松永行、右近徳太郎、川本泰三、加茂健、加茂正五

FBの堀江忠男さんは当時早大在学中、卒業後は朝日新聞勤務ののち早稲田大学政治経済学部の教授に就任。早稲田大学サッカー部監督を務め、釜本邦茂氏、森孝慈氏(政経学部卒)、西野朗氏、岡田武史氏(政経学部卒)らを育てた。

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June 24, 2015

新国立競技場とどちらが凄い?当初の見込みから11倍の工事費がかかったモントリオール・オリンピックスタジアム

FIFA女子W杯がカナダで開催されている。
24か国が参加し、以下の6つの会場で熱戦が繰り広げられている。

バンクーバー(BCプレイス)
エドモントン(コモンウェルス・スタジアム)
ウィニペグ(ウィニペグ・スタジアム)
オタワ(フランク・クレア・スタジアム)
モントリオール(オリンピック・スタジアム)
モンクトン(モンクトン・スタジアム)

これらの競技場の中に、2つオリンピックのメインスタジアムだった競技場がある。
ひとつは、バンクーバーのBCプレイス、もう一つは、モントリオールのオリンピック・スタジアムだ。

モントリオールオリンピックの開催は1976年。
商業オリンピックとして、オリンピック開催が黒字になるようになるのは1984年のロサンゼルスオリンピックから。
モントリオールオリンピックの時代は、まだ国家の一大事業だった時代だ。

オリンピック・スタジアムは、カナダ初のドームスタジアムを造るとして1973年に工事が始まった。
その当時の予算は1.34億カナダドル。
ところが、ストライキや工事の遅延がこれらのコストを上昇させた。
スタジアムの竣工は1976年の7月17日。この日までに2.64億カナダドルを費やした。
7月17日というのは、モントリオールオリンピックの開会式の日。
自慢の屋根も、目玉だったタワーも未完成のまま、ぶっつけ本番で開会式を迎えたのだ。

大幅に予算を上回り、その投資を回収するために、ケベック州政府はオリンピック開幕前の1976年5月から特別たばこ税を導入することにした。
気の毒なケベック州の住民は、なんとオリンピック閉幕の30年後の2006年11月まで、8%上乗せされたたばこの代金を支払い続けた。
この時点で7.7億カナダドルの工費を要し、さらに2006年から現在までのスタジアムの総工費は、14.7億カナダドルにまで膨れ上がることになる
当初の予算の約11倍だ。
14.7億カナダドルは現在のレートに直すと約1477億円。

スタジアム自体は、オリンピックの翌年 1977年にMLBのモントリオール・エクスポスの本拠地として生まれ変わった。
1988年になって、簡易開閉式の屋根が設置され、オリンピックから12年経ってカナダ初のドームスタジアムとなったが、老朽化が進み、2004年にエクスポスはモントリオールを離れ、ワシントンDCに移り、ワシントンナショナルズとして再出発した。
ケベック州のたばこ特別税による借金返済は2006年まで続いていたわけだから、ケベック州の住民はエクスポスが移転してからも税金を支払い続けたことになる。

ちなみに23年のモントリオール・エクスポスの活動期間中、地区優勝が1回(1981年)あるだけで、Wシリーズ優勝はもちろん、リーグ優勝も一度もない。

ロンドンのウェンブリー・スタジアム、モントリオールのオリンピック・スタジアム、シンガポールのナショナルスタジアム
人類史上、この3つのスタジアムが最も工事費が掛かっているだろうと思われるが、わが新国立競技場はその2~3倍の総工費を見込んでいるのだ。

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▲モントリオールオリンピックスタジアム 70年代にこんな競技場造ろうと思ったらそりゃ金がかかる。

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▲屋根を締めた状態


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June 05, 2015

FIFAスキャンダルの真相は?

FIFAの不正を巡る件で、イギリスの文化・スポーツ相を務めるウィッティングデール氏は、2018年と2022年のW杯の開催地を選ぶ過程でも不正が確認されれば、「投票をやり直す理由になる」としたうえで、要請があればイングランドで開催を引き受ける用意があると述べた。

イングランドはサッカーの母国であるが、W杯の主催は1966年大会の1回のみ。このときは、地元優勝を果たしたが、世界一隆盛である言われるプレミアリーグを擁しながらも、2度目のW杯の開催とはなかなか縁がない。
度々立候補するも

 1990年はイタリアに敗れ
 1994年は米国に敗れ
 1998年はフランスに敗れ
 2006年はドイツに敗れ
 2018年はロシアに敗れた。

2010年大会は南アフリカで、2014年大会はブラジルで開催することになり、大陸ごとの持ち回りはなくなった。2018年のW杯の欧州開催が濃厚、イングランドにとっては、絶好のチャンスであったのだ。

投票が行われたのは、2010年12月。FIFAの本部のあるスイス・チューリッヒ。
このFIFAの理事会では、2018年だけでなく、22年の2大会の開催国を決めようとしていた。
2大会の開催国を一気に決めようとしたことに、ブラッター会長は「事務作業を減らすため」などと詭弁を吐いた。
18年大会に立候補していたのは、ロシア、イングランドのほか、スペイン・ポルトガルの共催、オランダ・ベルギーの共催の4候補だった。
各招致国に対し、FIFAの調査報告書の中で付けられた評価は、①イングランド ②スペイン・ポルトガル ③ロシア ④オランダ・ベルギーの順だった。
2018年W杯開催の最有力候補と自他ともに認められたイングランド。だが、落とし穴が待っていた。

英国メディアが、FIFAの役員を嵌めようとしたのだ。
W杯招致が、五輪招致と最も異なるところは、五輪が100人以上のIOC委員が投票するのに対し、W杯はFIFAの幹部役員20数名の投票によって決められるところだろう。
1票の重みがかなり異なる分、不正の温床になりやすいという指摘が以前からあった。

サンデー・タイムズは、英国の保守系高級紙タイムズの日曜版だが、この記者が、米国企業のロビイストを装ってFIFAの理事に近づいた。
引っ掛かったのはアモス・アダム理事(ナイジェリア)とレイナルド・テマリー副会長(タヒチ)。
アダム理事は米国が22年招致に絞る前の時点で、18年開催地の投票で米国を支持する見返りとして、母国ナイジェリアに人工芝ピッチをつくる費用80万ドルを要求。テマリー副会長はスポーツ学校開設の資金として300万ニュージーランドドル(約1億8000万円)を求めた。
サンデー・タイムズ紙の電子版には取引の様子を写した動画も掲載された。

FIFAはこれに対し、テマリー副会長(タヒチ)には資格停止1年、アダム理事(ナイジェリア)には資格停止3年の処分が下された。

サンデー・タイムズとしては「スポーツマフィアの鼻を空かした」というところだろうが、FIFAからしてみれば、「美味しい汁を吸えたのに余計なことをしてくれた」となる。
そんなイングランドに投票する役員などFIFAにはいない。
イングランドの獲得票はわずか2票に終わり、開催権はロシアへ渡った。

Fifa2018

イングランドにしてみれば、次にW杯を開催するチャンスはいつになるか判らない。
一方、クリミアを併合したロシアに米国は憤懣極まらない。
なんとか、ロシアに赤っ恥をかかせたい。
そんな米国とイングランドが謀ったのが、今回のFIFAスキャンダルなのではないか。

 

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August 13, 2014

マンチェスターシティとエティハド航空の世界戦略

8月5日の朝日新聞によると、MLBのニューヨークヤンキースの本拠地であるヤンキースタジアムで来季から米リーグサッカーMLSの試合が行われるという。
ヤンキースタジアムを本拠にするクラブは、新たにMLSに参入するニューヨークシティ(NYC)。
元スペイン代表FWビリャやイングランド代表MFランパードが入団するという。
NYCは、ヤンキースとイングランドプレミアリーグ昨年の覇者、マンチェスターシティー(マンC)が合弁で作ったチームだ。
昨シーズンのプレミアリーグを制したマンCは、世界戦略を進め、豪州では2009年に創設されたAリーグのメルボルン・シティFCの株式80%を取得、傘下に収めた。

そして2014年Jリーグの横浜Fマリノスの株式19.95%を取得、グループの一員に迎えた。
株式会社横浜Fマリノスの資本金が3100万円だから、マンCが出資した額は約620万円になる。
一方、マリノスの筆頭株主であり、親会社である日産自動車は、マンCのスポンサーになることを決定。
5年間で2000万ポンド(約34.4億円)の出資を決めている。

日産自動車は英国サンダーランドに従業員数は6000人規模の工場を持ち、2012年の年間生産台数は50万台を記録している。
過去10数年に渡り英国最大の自動車工場であり、作られた自動車は欧州各地に輸出されているのだ。

このブログでかつて
マンチェスターシティ(英プレミア)を買ったタイ元首相
という記事を書いたことがある。

タイの首相だったタクシン氏が、マンCを買収したという内容の記事だ。
これが2007年のこと、クラブは、翌年にはタクシン氏からUAEの投資グループの手に渡った。
現在、マンチェスターシティを傘下に持つ「CFGシティ・フットボール・グループ」の実態はAbu Dhabi United GroupというUAEの投資会社のことだ。

日産がマンCのスポンサーになって、ユニホームの胸にNISSANの文字が大きく踊ると思われる方も多いかもしれない。
が、マンCの胸のスポンサーはUAE、アブダビの航空会社エティハド航空が2009年から押さえている。
その額は10年でなんと6億4200万ドルだ。

マンCの海外戦略にエティハド航空はともに歩む。
メルボルン・シティFCのホームスタジアムのネーミングライツ(命名権)を取得し、NYCの所属するMLSの公式スポンサーの座も手に入れた。
近い将来Jリーグのスポンサーに名乗りを上げるかもしれない!?

今日、サッカー界で中東の航空会社の存在感は圧倒的だ。
エミレーツ航空はSONYやHYUNDAIなどとともに世界に6社しかないFIFAの公式パートナーだ。
チャンピオンズリーグの覇者リアルマドリードのほかアーセナル、ACミラン、パリ・サンジェルマン、ハンブルガーSVと欧州主要リーグの強豪とスポンサー契約を結んでいる。

一方、レアルのライバル、バルセロナの胸にはカタール航空のロゴがある。
なんと100年以上の歴史を持つこのクラブ史上初めて営利企業の名前が飾られているのだ。

英国の調査会社によると、世界の航空会社からスポーツ界への投資額は5億1500万ドル。
そのうちエミレーツとエティハドの2社で半分近くを占め、エミレーツだけでも1億8200万ドルに上る。
ドバイやアブダビは、世界の航空ハブにしなりたいと考えている。
地理的にも欧米とアジアとをつなぐ。欧米やアジアの潜在的な顧客を掘り起こすイメージ戦略だと思われる。

かつて、日本企業が欧州強豪クラブのスポンサーを務めていた時代があった。
マンチェスターユナイテッド SHARP
ASローマ MAZDA
アーセナル JVC
ユベントス SONY
アヤックス TDK
レッドスター TOYOTA
などいくつもあったが、今では随分少なくなった。

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▲サッカー仕様のヤンキースタジアム 朝日新聞より


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July 15, 2014

幻の1986年ワールドカップ日本開催計画

戦後W杯を2回開催した国は3カ国しかない。
ブラジルは1950年と今回2014年、この間64年。
ドイツは1974年に西ドイツとして、2006年にドイツとして開催し、この間32年。
メキシコは1970年と1986年に2度開催しており、この間は16年。
決勝トーナメントの常連とはいえ、なぜメキシコは短い間に2回のW杯が開催できたのか。

1986年のW杯はコロンビア開催で決まっていたのだが、開催返上が余儀なくされた。
開催が決まったのは開催から遡ること12年前の1974年のFIFA総会だ。
当時の本大会出場国は16カ国、ところが市場の拡大をめざすFIFAは1982年のスペイン大会から出場国を24カ国に拡大することを決めた。

政治的にも、経済的にも不安定なコロンビアにこの地球規模のイベントは負担が大きすぎた。
1982年11月「24カ国でのW杯開催は不可能」と声明を出し、返上してしまった。(FIFAが誘導したとの説もある)
同じ米大陸の中という条件から、カナダ、メキシコ、アメリカが再立候補し、最終的に1983年5月メキシコでの2度目の開催が決まった。
このコロンビアの返上以降、初めて南米大陸で開かれたW杯が今回のブラジル大会だ。

この1986年大会だが、実は、日本開催で動いていたことがあった。
1970年のメキシコ大会に視察に来ていた日本サッカー協会幹部に スタンレー・ラウスFIFA会長(故人)が、16年後のW杯の日本開催を打診している。

1996年5月10日の朝日新聞に次のような記事がある。

「世界サッカー誘致を--16年先ねらい検討へ」。そんな文字が新聞各紙に躍ったのは、197082日のことだ。ワールドカップ(W杯)日本招致の構想は、今から26年も前に浮上した。同年のW杯メキシコ大会を訪れた当時の日本サッカー協会の野津謙会長が、国際サッカー連盟(FIFA)のスタンレー・ラウス会長(イギリス=イングランド)から打診を受けた。「日本は東京五輪を開いた。W杯を開催する気があるなら、86年にやってはどうか」それを受け、帰国した野津会長が日本体育協会で会見。「日本がもっと強くなければいけないし、資金などの難問がある。しかし目標をぐっと高く置き、86年のW杯を日本で開催したい」と語った。とはいえ、当時の日本にはW杯を開催する土壌は何もなかった。W杯の基準に見合う競技場はゼロ。練習場もない。サッカー人気も、実力も開催国にふさわしいとはいいがたかった。

野津謙は、1969年にFIFA理事に就任している。
2003年に小倉純二サッカー協会副会長がFIFA理事に当選するまで、長い空白があったことを考えれば、この時代にFIFAの要職に就いていた野津氏の政治力はかなりのものがあったと推測されよう。

しかし、1976年、同郷の長沼健氏(故人)らがクーデターを起こし野津は会長の座を追われてしまった。

1986年のW杯が日本で開催されていたら・・・
1986年メキシコW杯、6月22日、準々決勝のアルゼンチン対イングランド戦はW杯史上に残る。
マラドーナの「神の手ゴール」そしてその僅か4分後の「5人抜き」。
灼熱のアステカ・スタジアムの伝説は東京の国立競技場でも起こりえたのだろうか…。

小倉純二氏が定年によりFIFAを去り、現在日本人はFIFAの中枢にいない。
来年のAFC総会ではFIFA理事の改選が予定され、日本サッカー協会の田嶋幸三副会長が立候補を表明している。

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July 14, 2014

W杯優勝 ドイツ代表は多民族軍団だった

W杯ブラジル大会決勝はドイツ代表がアルゼンチン代表を1-0で破り、4度目の優勝を果たした。

02年準優勝、06年3位、10年3位、14年優勝と絶えず上位にあるかに見えるドイツだが、2000年のユーロ欧州選手権では1勝もできず、グループリーグで敗退した。
当時ドイツ代表には、けが人が出て急遽代表入りした39歳ローター・マテウスを始め、30歳以上の選手が何人もいた。
ドイツ生まれの白人選手で固めたチームが、もろくも崩れ去って行った姿はドイツの純血主義問題を浮き彫りにした。
これを受けてドイツサッカー協会は重い腰を上げて、開放政策を取り始める。

2000年1月より、ドイツは従来の血統主義に基づく移民法に変えて出生地法を採択した。
ドイツに永住意志のある外国人の両親を持つドイツで生まれた者は、出生と同時に両親の国籍と同時にドイツ国籍も自動的に付与される、というもの。

だが、親がEU域外の国籍を持つ場合、ドイツで生まれた人も23歳までに、いずれかの国籍を選ばなければならない。
例えば、ドイツ国内に住むトルコ系住民は計約295万人と移民のなかで最多だが、ドイツ国籍を得たのは半分以下の約135万人に過ぎない。

その結果外国にルーツを持つ選手がドイツ代表に入るケースが増え、今大会にも6人が名を連ねた。

●ポーランド系
ルーカス・ポドルスキ  
ミロスラフ・クローゼ  
●トルコ系
メスト・エジル
●ガーナ系
イェローム・ボアテンク
●アルバニア系
シュコドラン・ムスタフィ
●チュニジア系
サミ・ケディラ

何といってもすごいのは、イェローム・ボアテンクだろう。
彼の兄は、ケヴィン・ボアテング。
今大会にガーナ代表として出場した。
兄弟は、父親はガーナ人の同一人物だが、母親は別々のドイツ女性だという。
そして、ガーナとドイツは10年、14年と2大会続けてグループリーグで同組となり、兄弟はそれぞれ出場し、W杯では恐らく2度とない2大会連続「兄弟対戦」が実現した。

6人で驚いてはいけない。
4年前 南アフリカ大会のドイツ代表には11人の外国にルーツを持つ選手がいた。
大会中 トルコに住むエジルの祖母が亡くなるという不幸もあった。


日本代表の中にも酒井高徳は、ドイツ人の母親を持つドイツ系であることは知られている。
ほかにもイラン代表のアシュカン・デジャガとダビエル・ダーヴァリーがドイツの血を引いている。
デジャガはU21ドイツ代表で活躍していた選手だが、最終的にイランを選んだ。

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July 09, 2014

ドイツ7-1ブラジル でもW杯史上最多得点差は9点

ブラジルワールドカップ決勝トーナメント準決勝 ブラジル対ドイツは、FWトーマス・ミュラーが今大会5ゴール目となる先制点を挙げるなど、7-1でブラジルに大勝。
02年W杯以来の決勝進出を果たした。
6点差も凄いが、W杯史上最多得点差は9点で3試合ある。

1954年 ハンガリー9-0韓国
1974年 ユーゴスラビア(当時)9-0ザイール(現コンゴ民主共和国)
1982年 ハンガリー10-1エルサルバドル

ついで8点差も3試合。
2002年の札幌ドームで行われたドイツ対サウジアラビアは、まだ記憶に新しい。

1938年 スウェーデン8-0キューバ
1950年 ウルグアイ8-0ボリビア
2002年 ドイツ8-0サウジアラビア

そして7点差も3試合
1954年 トルコ7-0韓国
1954年 ウルグアイ7-0スコットランド
2010年 ポルトガル7-0北朝鮮

ちなみに対戦した2チームの得点の合計の最多試合は12点。
1954年 オーストリア7-5スイス

これに続く合計11点の試合には
先のハンガリー10-1エルサルバドル
1938年 ブラジル6-5ポーランド
1954年 ハンガリー8-3西ドイツ
などがある。

なお蛇足ながら、1954年にW杯初出場した韓国は1次リーグ2試合で計16点を奪われたことになる。

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