東京五輪検定

February 11, 2015

東京五輪検定⑨ 東京五輪開催当時、IOC会長は誰だったか。

答え:アベリー・ブランデージ(アメリカ)

ブランデージ氏は、東京五輪だけでなく1972年の札幌五輪開催時もIOC会長だった人物だ。
いかなる形であれ五輪にプロフェッショナリズムが持ち込まれることに強く反対したほか、親ナチス的・反ユダヤ的な態度、あるいは人種主義的とも取れる言動は、たびたび論争の的となった。
ブランデージ自身は陸上10種競技の選手として、五輪出場経験がある。

10種競技 (デカスロン)は、陸上の10種目からなる混成競技のことだ。
1997年の日本選手権大会の覇者である武井壮が、タレントとして活躍し、右代啓祐が日本人選手としては48年振りとなるロンドン五輪の10種競技に出場(20位)するなど、10種競技に関心を持つ人が近年増えてきている。

通常、2日間にかけて実施され、1日目は、100m、走り幅跳び、砲丸投げ、走り高跳び、400m、2日目に110m障害、円盤投げ、棒高跳び、やり投げ、1500mを行う。
陸上各競技の走・投てき・跳躍に関わる技術と、2日間にわたる体力、持久力、集中力が要求されることから、総合王者は「キング・オブ・アスリート」と称えられ、ヨーロッパでは特に人気が高い。
古代オリンピックの5種競技をルーツとし、近代オリンピックでは、1912年のストックホルム五輪から採用されている。
また、1912年のストックホルム、1920年のアントワープ、1924年のパリの各五輪においては、走幅跳び、円盤投げ、200m、1500m、やり投の5種目を1日で競技した5種競技(ペンタスロン)も正式競技として行われた。

1912年ストックホルム五輪の陸上5種、10種競技の両種目に優勝したのはジム・ソープ(アメリカ)。
ソープの偉業は、ストックホルム五輪の開催国であるスウェーデン国王、グスタフ5世から「世界で最も偉犬なアスリート」と特別にトロフィーを贈られたほどだ。

ソープはアメリカの原住民インディアンの血を引く万能スポーツ選手だったが、彼の名前が有名になったのは、
2つの金メダルを剥奪されたからだ、
アマチュアリズムが崩壊した現在では考えられない話である。
ソープが2つの金メダルを獲った翌1913年、アメリカの地方紙に「ソープはプロ野球選手だった」という記事が載る。
この記事が元で、ソープは金メダルを剥奪された。

現代の五輪では、プロ選手にも開放、オープン化されている。
しかし当時、五輪にはアマチュア規定が厳しく定められており、プロ選手の参加は認められていなかった。
貧しい学生だったソープは、学生生活の傍ら、プロ野球とは名ばかりのセミプロ球団で、夏休みに2度ほど
アルバイト選手としてプレーし、週10数ドルほどの給料を受けたことがあった。
スウェーデン国王が素晴らしいと褒めたたえるほどの成績を残しても、プロで稼いだ金が微々たるもので、ほとんどが学校に入っていたとしても特例は認められず、ソープの金メダルは剥奪されてしまった。

後のIOC会長であり、アマチュアリズムの権化と呼ばれたアベリー・ブランデージ(アメリカ)は、ソープと同じストックホルム五輪の五種競技に出場し、6位に入ったが、ソープの失格で5位に繰り上がっている。
ソープの金メダル剥奪の影には、ブランテージの存在があったのではないかと言われている。
また、インディアンの血をひくソープヘの人種差別、偏見もあったようだ。

1953年にソープ自身は死去するが、30年経った1982年10月にIOC理事会はソープの権利回復を承認した。
ただし、当時繰り上げで金メダルを獲得した5種競技のフェルディナンド・ビー、10種競技のフーゴ・ウィースランダーともに繰り下げずにそのままとし、ソープも金メダルを獲得=両者優勝とした。


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January 26, 2015

東京五輪検定⑧ 東京五輪で開会宣言は誰がしたか? ①東龍太郎都知事 ②昭和天皇 ③ダグラス・マッカーサー

五輪の開会式では開会宣言がされる。
五輪憲章には明確に「開催国の国家元首によっておこなわれる」と規定されており、国王、大統領もしくは準じる立場の方が開会宣言を行っている。
過去日本開催の五輪では、昭和天皇が東京と札幌。今上天皇が長野五輪で開催宣言をしている。

1936年のガルミッシュパルテンキルヘン冬季五輪と、同年のベルリン五輪では、アドルフ・ヒトラーが開会宣言を行っており、五輪史の汚点のひとつとされている。

開会宣言の内容は、オリンピック憲章第69条の規定で定められており「私は、第○回近代オリンピアード競技大会の開会を宣言する」といったものだ。
同時多発テロの翌年である2002年ソルトレークシティ冬季五輪の開会式で、米ブッシュ大統領(当時)は宣言の前に「誇り高く、優雅なこの国を代表して」と政治的色彩のある言葉を付け加え、波紋を招いた。
 
東京五輪以降の開会宣言を行った人物の一覧は下記のようになる。

Kaikai



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January 24, 2015

東京五輪検定⑦ 東洋の魔女の女子バレーは、競技として成立し損ねる可能性があった。それはどんな理由に拠るためか。

1964年の東京五輪で"東洋の魔女"と呼ばれた全日本女子チームが、宿敵ソ連を3対0でくだし、初代金メダリストになったことは多くの人が知っていると思う。
日本対ソ連のバレーボール決勝戦の視聴率はW杯サッカーを凌ぐ歴代1位の66.8%で、NHK・民放合わせると85%に達したとも言われている。

東洋の魔女の金メダルにはこんな裏話がある。
東京五輪開幕間近になり、北朝鮮の大会ボイコットが決まった。
当初、女子バレーに出場を予定していた北朝鮮の不参加により、「6ヶ国以上の出場」という正式種目の規定が満たせなくなった。
頭を悩ませた東京五輪組織委員会は、韓国に100万円を送り、急遽出場をお願いした。
当時、バレーボールは東京五輪に限って正式種目として実施することになっており、日本女子が金メダルを獲れる唯一の種目を何としても実施したかったのだ。

事実、東京五輪以前に日本の女子選手が獲得した金メダルは、1936年ベルリン五輪200m平泳ぎの前畑秀子さんが唯一であり、地元開催で2個目の金メダルが欲しかったのだ。
そして急遽来日し、準備不足だった韓国バレーチームは全敗している。

当時 女子の球技は、世界的にみても、バレーボール以外もほとんど普及していなかった。
バスケットボール、ハンドボールも女子は実施されておらず、ホッケー、サッカー、水球の女子の採用はほんの最近なのだ。

●東京五輪女子バレー最終順位
1.日本
2.ソビエト
3.ポーランド
4.ルーマニア
5.アメリカ
6.韓国

●球技の五輪初実施大会
サッカー男子     1900年
サッカー女子     1996年
水球男子       1900年
水球女子       2000年
バスケットボール男子 1904年
バスケットボール女子 1976年
ホッケー男子     1908年
ホッケー女子     1980年
ハンドボール男子   1936年
ハンドボール女子   1976年
バレーボール男子   1964年
バレーボール女子   1964年
野球         1992年~2008年
ソフトボール     1996年~2008年


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January 19, 2015

東京五輪検定⑥ 1964年東京五輪と2014年のソチ冬季五輪 参加国数が多かったのはどっち?  1.東京  2.ソチ

 答え:1の東京
 1964年東京五輪 93の国と地域の参加
 2014年ソチ五輪 88の国と地域の参加

東京五輪には南アフリカ、インドネシア、北朝鮮、中華人民共和国などが参加していない。
また、当時ドイツは、東ドイツと西ドイツに分断されており、日本は東ドイツと国交がなかったため、両国は統一ドイツとして参加している。この統一ドイツ選手団は、1956年のコルティナダンペッツォ冬季五輪から1964年の東京五輪までの6回の五輪で組まれた。

1960年代にはドイツのほかにも分断された国家がいくつかあった。
当時中国は、日本と国交はないばかりか、IOCを脱退中で東京五輪に参加をしていない。
さらに中国は、東京五輪開催中の10月16日に核実験を行い、世界を驚かせた。
日韓は1965年になって基本条約を結んでおり、1964年の東京五輪開催時には正式国交はなかったが、東京には154人の大選手団を送ってきた。
南北に分かれていたベトナムは、西側にあった南ベトナム(ベトナム共和国)のみが参加している。

Doitu

では、2020年の東京五輪はどうなるか。
夏季大会で従来、28を上限としていた競技数による規制を緩めるが、競技数は310種目、参加選手数は10500人を上限とすることが決まっている。
1964年の東京五輪に比べて選手数は2倍、種目数も2倍弱の大会となる。
Tkosochi




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January 18, 2015

東京五輪検定⑤ 東京五輪で選手宣誓をしたのはだれか(三択) (a)猪熊功 (b)小野喬 (c) 河西昌枝

答え:(b)小野喬

同一五輪に、異なる競技に出場し、どちらもメダルを獲得したのは、アテネ五輪柔道の谷亮子(金)、野球の谷佳知(銅)夫妻だ。

一方、夫婦で同一五輪に出場し、同一競技でともにメダルを獲得した夫婦がいる。
東京五輪の小野喬・清子夫妻だ。
「鬼に金棒、小野に鉄棒」といわれた小野喬氏は、東京教育大3年で1952年ヘルシンキ五輪に出場、次の1956年メルボルン五輪の鉄棒で日本体操界初の金メダリストとなった。
1958年に結婚し1960年ローマ五輪にも出場、33歳の4大会連続出場となる東京五輪では選手宣誓の大役も務め、怪我に苦しみながらも団体金メダルに貢献した。
夫人の小野清子氏は、東京五輪時に既に子供2人を出産していた。
体操界初のママさん選手だった。(小野さん以降いるのだろうか?)
ローマ五輪に続いて出場した東京五輪では団体銅メダルを獲った。
1982年3月に女性初のJOC委員。
1986年から参議院議員、国家公安委員長等を務めた。

選択肢(a)の猪熊功氏は東京五輪柔道重量級金メダリスト(故人)
(c)の葛西昌枝氏は東京五輪女子バレーボール金メダリスト(故人)

●日本開催の五輪の日本選手団主将、選手宣誓、旗手
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January 12, 2015

東京五輪検定④ ジョージ・フォアマン、モハメド・アリ、ジョー・フレーザーの3人の内、東京五輪で金メダルを獲ったのは誰か。

答え:ジョー・フレーザー 

最強のボクサーにして、最高のビッグマウス。
元世界ヘビー級王者モハメド・アリは、今なお世界最高のボクサーとして、世界中で高い評価を受けている。
1996年7月、アトランタ五輪開会式。聖火ランナー最終走者として姿を現したモハメド・アリは、パーキンソン氏病を患い、震える手を押さえながらで点火をし、世界中の感動を誘った。

モハメド・アリは生まれながらの名前ではない。
カシアス・クレイが生まれながらの名前であり、ローマ五輪で金メダルを獲った時の名前である。

18歳のクレイがローマから米国に帰国したとき、故郷で待ち構えていたのは賞賛や尊敬ではなく差別だった。
友人とレストランに入ったが金メダルを見せて名乗っても、「ここは白人専用、黒人の来るところではない」と追い出された。
その帰り道、彼は通りかかったオハイオ川に金メダルを投げ捨てたという。

プロ入りして19連勝、15KO勝ち。
1964年2月、22歳にしてトニー・リストンと対戦してヘビー級のタイトルを手にした。
黒人指導者マルコム・エックスが率いる急進的な黒人組織ネーション・オブ・イスラムの一員になり、白人が付けた奴隷の名前=カシアス・クレイを捨て、モハメッド・アリ=高貴な神になると宣言をした。

アリの行動はベトナム戦争、黒人解放運動といった1960年代のアメリカ社会の背景を抜きにしては理解できない。
クレイとしての金メダルから8年後、1968年メキシコ五輪でもこうしたことが起きた。

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ボブ・ビーモンが走り幅跳びで8m90の驚異的な世界記録を出すなど、米国の黒人選手が大活躍。
「ブラック・パワー」が吹き荒れたこの大会の男子200m、19秒83の世界記録で優勝したトミー・スミスと3位のジョン・カルロスが、メーンポールに揚がる米国国旗を無視、黒い手袋をはめたこぶしを突き上げた。
その年、黒人解放運動の指導者、キング牧師が暗殺されるなど米国における黒人差別への不満と不安が五輪の場で爆発したのだ。

一方、アリは露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返し、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことからチャンピオンベルトを剥奪される。
徴兵拒否で懲役5年罰金1万ドルの刑を受けたが、1970年最高裁で無罪となり、1971年、4年の空白を越えて復帰。
しかし、第一戦でジョー・フレージャーと対戦して初めての敗北を経験する。

そして1974年、ザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサでジョージ・フォーマンと歴史的対戦を行った。
32歳のアリが高額なファイトマネーのために対戦し、誰もがフォアマンの勝利を信じていた中で奇跡の王座奪還を果たす。

この対戦は、祖国アフリカで行われるということで、世界的な注目が注がれた。
キンシャサの地での勝利はアリにとっても、生涯忘れられないものとなった。

1978年にはレオン・スピンクスとの対戦で三度目の王座を手にするがパーキンソン病となり1981年に引退。
プロ通算61戦、56勝、5敗、37KOという記録が残った。

しかしボクシング以外の行動を止めることはなかった。
ネーション・オブ・イスラムと決別、マーチンルーサーキングに協力して差別に挑む一方、1990年湾岸戦争では、サダムフセインを訪れて10人のアメリカ軍の捕虜をアメリカに送還することに成功。
1998年にはキューバを訪問、アメリカ政府に対して経済封鎖の緩和を訴える声明を発表。
9.11同時多発テロの時は救援コンサートでイスラム教徒を代表して平和を呼びかけている。

そして先述の1996年のアトランタ五輪では、IOCからローマ五輪金メダルのレプリカを再交付されている。

●アリ、フレーザーそしてフォアマンの金メダル
ライトヘビー級
1960年 ローマ大会
金メダル カシアス・クレイ(アメリカ)=のちのモハメド・アリ
ヘビー級
1964年 東京大会
金メダル ジョー・フレーザー(アメリカ)
1968年 メキシコ大会
金メダル ジョージ・フォアマン(アメリカ)



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January 07, 2015

東京五輪検定③ 東京五輪(1964年)開催時の日本、ソウル五輪開催時の韓国、北京五輪開催時の中国の1人あたりのGDPを大きい方から並べよ。

2008年に北京五輪を開催した中国の、開催前年(2007年)の1人当たり国内総生産(GDP)は2461ドルだった。
ソウル五輪の前年1987年の韓国の1人当たり国内総生産(GDP)は3486ドル、ソウル市に限ると3710ドルという数字が残っている。
韓国が国内ほぼ同水準だったのに対し、中国の場合、北京市に限れば2006年には6000ドルを超えていた。
国土が広大で、都市部と農村部との差が大きいのが中国だ。

一方、1964年に東京五輪を開催した日本の当時のGDPは29兆5000億円。
当時の日本の人口が9718.2万人だったから、1人あたりのGDPは約303万円。
この当時は1ドル=360円の固定相場制を採っていたため、303万円を360円で割ると約842ドル。

答え:1988年の韓国>2008年の中国>1964年の日本

共同通信のサイトの中に1964年と2012年の物価を比較した表があった。

1964bukka

http://www.kyodo.co.jp/mamegaku/2014-02-06_457809/
はがきは当時5円が2012年は50円。
ラーメン59円が587円はいいとしても、モノクロの16型テレビが55,500円もしたとは驚きだ。



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January 05, 2015

東京五輪検定② (○×クイズ)アントン・ヘーシンクに敗れた神永昭夫は 同じ日に2回ヘーシンクに敗れている。

正解:○

東京五輪の柔道無差別級に参加した選手を調べてみるとなんと9人しかいない。
体重のある選手が、重量級と無差別級に分散されるとはいえ9人とは随分と少なかった。

予選で9人を3つの組に分け、各組2勝した3人が準決勝に進出。
各組1勝した3人で敗者復活戦を行い、4人目の準決勝進出者を決めるという試合形式が採られた。神永昭夫は抽選でヘーシンクと同じ組になり、この日最初の対戦は判定で敗れた。
その後敗者復活戦、準決勝を勝ち上がり、決勝で再びヘーシンク挑むも9分22秒(当時、試合時間は10分だった)袈裟固めで一本負けをし、銀メダルに終わった。

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余談ながら神永は、この試合の翌日、定時に勤務先の富士製鉄(現新日鉄住金)に現れ、普通に勤務をしたという。
1992年のバルセロナ五輪では、日本代表総監督として吉田秀彦や古賀稔彦を金メダルを見届けたが、翌1993年に直腸癌のため死去、56歳の若さだった。


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東京五輪検定① ○×クイズ 東京五輪柔道金メダリスト ヘーシンクは柔道と並行してレスリングの選手でもあった。

正解:○

1964年の東京五輪で活躍した外国人選手というと、アントン・ヘーシンク(2010年没)が思い浮かぶ方も多いだろう。

ヘーシンクは柔道が初めて五輪に採用された東京五輪柔道無差別級で、日本の神永昭夫を破って金メダルを獲ったオランダの選手だが、東京五輪の3年前、1961年の第3回世界柔道選手権で、日本人以外の選手として初めて優勝した選手でもある。
当時のヘーシンクの強さは抜きんでており、東京五輪でもヘーシンクには敵わないと関係者は感じていたようだ。

ヘーシンクの体格だが、体重は東京五輪時には120㎏だったようだが、身長は192㎝、196㎝、198㎝と諸説ある。
ヘーシンクに敗れた神永昭夫さん(1993年没)は179㎝102㎏。
体格でも圧倒していた。

ヘーシンクの修業時代、柔道は世界的に普及しているとは言い難く、圧倒的な体格を誇るヘーシンクの稽古相手を務められる選手はほとんどいなかった。
そのため、日本レスリング界の父と呼ばれる八田一朗氏に、レスリングのグレコローマンを勧められ、柔道と並行してマットに立った。

レスリングのオランダ選手権を3回制し、1958年の世界レスリング選手権グレコローマン87㎏級では、6位に入っている。
この年は東京で開催された世界柔道選手権無差別級に出場し5位になっており、同じ年に柔道とレスリングの世界選手権の両方に出場するという非常に珍しい記録を持っている。


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