体操競技

September 02, 2016

体操の技にはなぜ人の名前が付いているのか?

体操の白井健三がリオデジャネイロ五輪で成功させた跳馬の新技がシライ2と名付けられ、白井の名前のついた技はこれで5つとなった。
すでに跳馬の「シライ/キム・ヒフン」、ゆかの「後方伸身宙返り4回ひねり」の「シライ/グエン」と、「前方伸身宙返り3回ひねり」の「シライ2」、「後方伸身2回宙返り3回ひねり」の「シライ3」の4つがあり、跳馬の「シライ2」は5つ目の技となる。

古くは「山下跳び」に始まり、カサマツ、ツカハラ、モリスエ、エンド―、ヤマワキ…、体操の技にはかつての選手の名前が付いたものが多くある。

そもそも体操の技は、「後方棒上かかえ込み二回宙返り腕支持」「後方伸身2回宙返り2回ひねり下り」といったように、基本的に演技内容を述べたものがそのまま技名となっている。これらの通称として、選手の名前が付けられているのだ。では、どうやって選手の名前を付けるのだろうか。

結論から言うと、体操の技に付いている人の名前は、一般的には最初にその技を開発した選手の名前だ。
五輪や世界選手権など大きな国際大会での演技を参考に、国際体操連盟が、技の難度を決める時などに話し合って決めている。
人の名を付けるにあたって、実は明確な基準はない。技が複雑になるにつれ、どうしても長い表記になってしまう。
それをわかりやすくし、新しく技を開発した選手に敬意を表する意味も込めて、人の名前に置き換えている。


リオデジャネイロ五輪男子体操個人総合で内村航平が金メダルを決めた鉄棒の内容は以下のようになる。

①屈伸コバチ E難度 コバチ・ペーテル(ハンガリー)
②カッシーナ G難度 イゴル・カッシーナイタリア
③シュタルダーとび1回半ひねり D難度ヨーゼフ・シュタルダー(スイス)
④アドラーひねり D難度
⑤コールマン F難度 アロジュ・コールマン(スロベニア)
⑥アドラー1回ひねり D難度 ?
⑦ヤマワキ  D難度 山脇恭二
⑧エンド―  B難度 遠藤幸雄
⑨ホップターン C難度 別名ラルフ・クースト(ドイツ)
⑩伸身新月面 E難度 別名ワタナベ(渡辺光昭)

いずれも個人の名前が付いているが、アドラーはそのような名前の体操選手はいなかったので、おそらく鷲を表すドイツ語の一般名詞から来ているのではないか。

ちなみに、塚原光男氏がミュンヘン五輪で披露し成功させた、鉄棒の「後方二回宙返り一回ひねり降り」は「ツカハラ」という通称が付いているが、「月面宙返り(ムーンサルト)」という呼び名が一般的になっている。

そして「新月面」と呼ばれている技は、後方抱え込み2回宙返り2回ひねりは、ルーマニアのダニエラ・シリバシュの作で、内村が降り技に使った(伸身の新月面)は、後方伸身2回宙返り2回ひねり降りのことで、1980年代に活躍した渡辺光昭氏が編み出した技だ。

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August 17, 2016

史上初 体操で金メダルが獲れなかった中国

体操の種目別が終了し、今大会の体操競技は終了した。
今大会は歴史的な大会だったのではないか。
というのも常に体操競技の中心にいた中国がひとつの金メダルも獲れなかったのだ。

中国がIOCに復帰したのは1979年。
モスクワ五輪に参加しなかったから、夏季五輪は1984年のロサンゼルス大会がデビュー戦と言っても良い。
ロサンゼルス五輪は、ソ連や東ドイツがブルガリアといった体操強国が参加しなかった大会であり、金メダルは中国5個、米国5個、ルーマニア5個、日本3個と4か国に集中した。

団体、床、あん馬など4つの金メダルを獲った中国の李寧は、引退後、抜群の知名度を生かして自らの名を冠したスポーツウエアの会社LiNingを創業、リオ五輪でも中国以外の国で採用されているのを見かける。

中国は、ロサンゼルス五輪以降、すべての大会で多くのメダルを量産し続けてきた。
特にすごかったのが地元開催の北京五輪だ。
体操は男女合わせて14の種目で争うが、金メダルを実に9個、全部で14個のメダルを獲った。

が、それからわずか8年。
リオデジャネイロ五輪の中国は、僅かに男女の団体で銅メダルをそれぞれ獲ったに過ぎない。

Chinajapan

何があったのだろうか。
団体金の日本チームは、3回目の五輪出場だった内村航平以下、加藤凌平、田中佑典、山室光史の3人がロンドン五輪の経験者。
初の五輪は19歳の白井健三のみ。

一方の中国でロンドン五輪の経験者は27歳の張成龍のみ。
鄧書弟24歲、尤浩24歳、劉洋21歳、林超攀20歳の4人は初めての五輪だった。
この差が大きいのだろう。

日本はただでさえ、2015年の世界体操選手権で37年ぶりに優勝し、リオ五輪でも優勝できると審判に印象づけられていた。

体操の予選で日本チームがミスを重ねて4位だったことは記憶にまだ新しいが、決勝では大きなミスは山室のあん馬のみにとどめた。

日本の最終種目だった床が圧巻だった。
演技をした3選手の得点は、白井健三16.133、内村航平15.600、加藤凌平15.466。
これは団体決勝の床に出場した24選手の1~3位を独占しているのだ。


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August 14, 2016

長い長いオクサナ・チュソビチナのはなし

8月15日リオデジャネイロオリンピック、女子体操種目別跳馬をご覧になった方は驚かれるだろう。
その舞台には、7回目のオリンピック出場を果たした41歳の選手が出場しているのだ。
彼女の名前はオクサナ・チュソビチナ。
国籍はウズベキスタンとあるが、ここに至るまでひと口では語れないドラマがあった。


かつて、欧州大陸からアジア大陸の東までまたがるソビエト連邦という国があった。
1991年に消滅したこの国は、オリンピックのメダルを多く獲得することで、国威発揚を諮り、それを西側諸国に見せつけることで社会主義の優越性を見出そうとした。
オリンピックで獲得したメダルの総数はおよそ1200個にも達する。

得意とする競技はたくさんあったが、中でも女子の体操は群を抜いて強く、ソ連が初参加した1952年大会からソ連消滅後にEUN=旧ソ連の合同チーム として参加した1992年大会までの内、自らがボイコットしたロサンゼルス大会以外は団体で金メダルを獲った。

バルセロナオリンピックを前年に控えた1991年、ソ連共産党守旧派によるクーデターが勃発した。
この首謀者が、しペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行、東欧の民主化革命を支持し冷戦を終結させたゴルバチョフ氏の直接の部下であったため、ソ連共産党とゴルバチョフの権威は失墜した。
ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任し、ソ連は解体に追い込まれた。

ソ連解体後は、先に独立を果たしていたバルト3国を除く、ソ連を構成していた12の共和国は、合同チーム(EUN)を作り、1992年の冬季・夏季オリンピックに限りEUNとして参加することになった。
各共和国のスポーツ組織が整うのはまだまだ先のことだ。

ソ連として参加したオリンピックの全てに大量の金メダルを獲ったソ連だ。
国が例え崩壊しても、半年程度で競技力が急激に落ちることはない。
体操女子団体総合では、EUNが旧ソ連時代のソウルオリンピックに続いて2連覇を達成した。
旧ソ連時代を含めると10度目の団体金メダルである。
ボギンスカヤを中心に正確さと優美さを兼ね備えた演技で確実に得点を重ねた。
表彰式では、ソ連国旗と国歌に代わってオリンピック旗が掲げられ、オリンピック賛歌が場内に流れた。
ソ連国歌を諳んじられるほど馴染んでいたオリンピック関係者には、戸惑いも見られた。

とはいうものの、ルーマニアとアメリカの追い上げを、正確な演技と見事な団結力で振り切ったEUN。
表彰台には、晴れやかな笑顔が六つ並んだ。
以下のようなメンバーである。

スベトラーナ・ボギンスカヤ19歳 ウクライナ 個人総合5位
オクサナ・チュソビチナ17歳 ウズベキスタン 個人総合30位
ロザリア・ガリエワ 15歳 ウズベキスタン 個人総合8位
エレーナ・グルドネバ 18歳 ロシア 個人総合22位
タチアナ・グツー 15歳 ウクライナ 個人総合1位
タチアナ・リセンコ 17歳 ウクライナ 個人総合7位 平均台金 跳馬銅

長い栄光の歴史を持ったソ連の女子体操も、この大会でピリオドが打たれた。
この後、6人がさらに大きな花を付けて、オリンピック会場に戻ってくるのか、あるいはソ連の消滅とともに彼女たちも体操をやめてしまうのか、この時点では誰も予想できなかった。
バルセロナオリンピックが閉幕し、6人の金メダリストは、それぞれが新たな母国に帰国した。

ソ連時代には、2万5000人のステートアマと呼ばれる国家マル抱えのソ連代表選手がいた。
彼等にはその競技成績応じて、連邦スポーツ委員会から報酬が支払われ、その合計は年間1億5000万ルーブルにもなったと言われている。
海外遠征も連邦スポーツ委員会の資金で行われた。
だが、ソ連が崩壊して共和国が独立すると、選手派遣や強化費は共和国のスポーツ組織か自分で調達しなければならない。
その一方で、母国の旗の下参加する意義は大きいと誰もが考えた。
新しい祖国への熱い思いが、必ずしもよくない練習環境を跳ね返す原動力になったのはもちろんだが、それが5年も10年も続くとは思われなかった。

オクサナ・チュソビチナの母国であるウズベキスタンは、バラ色の天国ではなかった。
カリモフ大統領による独裁主義。野党は認めない、政府系以外のメディアの存在は認めない、そしてスポーツに回す予算はない。
間違いなくスポーツをするにも、人間らしい生活をするにも、かつてのソ連を下回る環境だった。
そのため、チュソビチナと同じバルセロナオリンピックの団体金メダルのメンバーで、ウズベキスタンが母国だったロザリア・ガリエアは逃げるようにロシアに市民権を移し、アトランタオリンピックをロシア代表として目指すことになった。

ロシアの体操関係者は、チュソビチナにも接触してきた。
オリンピックの体操団体は12カ国で争われる。
ウズベキスタンのような小国では団体のオリンピック出場権を得ることは不可能だ。
ロシア代表であれば、団体も、個人総合も、種目別も狙える。
世話になったコーチや友人もモスクワには多くいる。
モスクワに帰ったガリエワからも一緒にやろうという手紙をもらった。
が、踏みとどまったのは、結婚の約束をしているレスリングのウズベキスタン代表のクルバノフの存在だ。
ロシアのレスリング界にはクルバノフと同じ階級にマルティノフという強豪がおり、彼を倒さない限りはアトランタに行くことはできない。


2度目のオリンピック アトランタ 1996年
ウズベキスタンとして初参加したアトランタオリンピック、女子の体操に出場したのはチュソビチナともうひとりのみ。
ウズベキスタンは、団体の出場権はもちろん得られなかった。
チュソビチナは、個人総合では10位と健闘したが、種目別ではいずれも上位には進めなかった。
一方、ロザリア・ガリエワが加入したロシアは、地元アメリカには適わなかったが団体で銀メダルを獲得。
ロシアの17歳スベトラーナ・ホルキナが、段違い平行棒で金メダルを獲った。
そして、チュソビチナの恋人 クルバノフはレスリング・グレコローマン・フェザー級で16位に終わった。

自身2回目のオリンピックが終わり、チュソビチナは引退を考え始めた。
年齢的には19歳だが、体操選手の選手寿命は短い。
もういつ辞めてもおかしくない、そう考えた。

1997年に正式に引退、1998年クルバノフと結婚。
翌年には、長男アリーシャが誕生した。
2000年のシドニーオリンピックには、自身は出場するつもりはなかった。
が、カリモフ大統領から直々にオリンピック参加要請が来たため、出場するに至った。
というのも、ウズベキスタンに有能な後輩は全く育っていなかったのだ。
アリーシャが1歳のこの年、十分な練習を詰めるはずもなく、散々な結果に終わった。
夫のクルバノフは5位に入賞。
4年後のアテネオリンピックではメダルが獲れるかもしれないと思った。

やがて2002年 予想外の出来事が、このスポーツマン一家を襲うことになる。
4歳になったアリーシャが、急性リンパ性白血病に罹っていると判ったのだ。

この病気は、白血球の一種であるリンパ球ががん化し、骨髄で無制限に増えていく病気だ。
抗がん剤やステロイド剤による化学療法により、10年以上の生存率は8割に達する。
が、それは先進国の医療水準での話だ。
ウズベキスタンの医療水準は、日本の30年前のレベルにある。
タシケントの病院では治癒は難しい。
もしも患者全体の5%を占める悪性であったら、骨髄移植が必要になる。

アリーシャに適切な医療を受けさせるためには、海外に出るしかない。
治療のためには15万ドルを超える費用が必要になる。
チュソビチナがお金を稼ぐための手段は、体操しかない。
既に27歳になっていた。
10代でピークを迎えるといわれる女子の体操界にあって、27歳の選手は他にはいない。
が、愛息アリーシャを助けるために、練習を再開した。
この年になると、4種目の全てに練習することはきつい。
最も得意な跳馬に注力して練習するようにした。

この年ハンガリーのデブレツェンで開催された世界体操選手権跳馬で銀メダル、翌年アナハイムで開催された世界選手権跳馬では金メダルを獲った。
世界選手権には賞金が出される。
金メダルの場合3000ユーロ。
有難かったが、あまりに高額な医療費の足しにはなかなかならない。
むしろ、このときの様子がアメリカのメディアに乗り、多くのカンパが寄せられ、チュソビチナ基金ができた。
これでオリンピックのメダルさえ手にできれば、大きなスポンサーが付き、アリーシャの命は救われる、そう思っていた。


4度目のオリンピック アテネ2004年
重病の息子を抱え、オリンピックに帰ってきた29歳の元ソ連代表選手は、メディアの注目を一身に集めた。
体操女子予選の種目別・跳馬に挑んだオクサナ・チュソビチナ。
滑り止めを手のひらにすり込み跳馬台へ、だが1本目は転倒してしまった。
2本目は着地が乱れ、2本の平均得点は8・800にとどまった。
得意の跳馬に絞り込んで臨んだアテネオリンピックで、8位までの決勝進出の夢は断たれてしまった。
チュソビチナはここで大きな決意をする。
『ドイツの企業の支援を受けるために、ドイツ国籍を申請しました。4年後の北京オリンピックをめざしています』
まだ競技への意欲は満々だったのである。

2007年10月 ドイツへの国籍変更が認められた。
これを国際体操連盟も承認、晴れてドイツ代表として競技会へ参加できるようになった。


そして北京オリンピック 2008
金メダルを獲ったバルセロナオリンピックから16年。
オクサナ・チュソビチナ33歳になり、5回目のオリンピックを迎えていた。
最初は旧ソ連のEUN、そしてウズベキスタンから3回、今回はドイツ代表。
ケルンのスポーツクラブの施設は充実しており、今回は個人総合をも見据えて4種目の練習を十分に積んできた。
個人総合では9位に入った。
入賞には一歩及ばなかったが、バルセロナの30位、アトランタの10位を上回る自己最高順位だ。
そして、最もメダルに近いと自他共に認めていた跳馬の種目別が始まった。

1本目 前転跳び 前方伸身宙返り1回半ひねり 15.575
2本目 前転跳び 前方屈身宙返り1回ひねり 15.725
平均 15.425
北朝鮮の選手に次いで銀メダルを獲った。


オクサナ・チュソビチナの挑戦はこれで終わらなかった。
2012年ロンドンオリンピックにも出場し、跳馬で5位入賞する。

2013年になり、またも転機が訪れる。
ウズベキスタンの体操協会から復帰を請われたのだ。
これに対し、ドイツ体操連盟は彼女の偉業をたたえ、ドイツ国籍を保有したまま、ウズベキスタン代表として競技会に出場することを特例として認めた。

2016年4月 リオデジャネイロで開かれたオリンピック最終予選で、チュソビチナは、個人の出場権を獲得した。もちろんウズベキスタン代表として。
そして15日 自身3個目のメダルをめざして7回目の五輪の舞台を踏む。

1992年に旧ソ連代表として金メダルを獲得した女子体操選手が、24年後にもオリンピックに挑んでいる。
体操界にデビューしたのは1988年、13歳のときにソ連のジュニア選手権を制した。
100年を超えるオリンピックの歴史の中で、7回のオリンピックに参加し、3つの異なる代表になった唯一の選手だ。

息子のアリーシャは病気を克服した。
16歳になり、バスケットボールに夢中だという。


バルセロナオリンピックでEUN代表として体操団体で金メダルを獲った6人のその後を簡単にご紹介しよう。

スベトラーナ・ボギンスカヤ 当時19歳 
1988年ソ連代表 92年EUN代表 96年ベラルーシ代表で3回のオリンピックに出場した。
92年に一度引退するもカタリーナ・ビットに触発されて現役復帰。
アトランタオリンピックに出場し、1997年引退した。

ロザリア・ガリエワ 当時15歳 
ウズベキスタンからロシアに国籍を移しアトランタオリンピック出場。
1997年引退。
体操の国際審判をしている。

エレーナ・グルドネバ 当時18歳 
ロシア国籍だが、その後競技会で見たことはない。

タチアナ・グツー 当時15歳 
その後オリンピック出場はない。
2003年に米国籍を取得 アテネオリンピックで現役復帰を試みるが失敗。
離婚経験あり。

タチアナ・リセンコ 17歳 ウクライナ
ウクライナ国籍だがその後のオリンピック出場はない。
米国在住。サンフランシスコ大学(USF)ロースクール卒業。

オクサナ・チュソビチナ 当時17歳
ウズベキスタンからドイツに国籍を変更し、再びウズベキスタン代表として7回目のオリンピック出場を果たす。
まだ現役。

●オクサナ・チュソビチナのオリンピック
1992年 17歳 EUN代表 団体金 床7位 個人総合30位(予選)
1996年 21歳 ウズベキスタン代表 個人総合10位
2000年 25歳 ウズベキスタン代表
2004年 29歳 ウズベキスタン代表 跳馬予選23位
2008年 33歳 ドイツ代表 団体12位 個人総合9位 跳馬銀
2012年 37歳 ドイツ代表 跳馬5位
2016年 41歳 ウズベキスタン代表
体操世界選手権では、16歳と26歳で跳馬に銀メダル、28歳で金メダルを獲っている。

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August 02, 2016

リオデジャネイロ五輪はこれを見逃すな⑤ 内村航平を脅かす男 オレグ・ベルニャエフ

今回のリオデジャネイロ五輪に出場する日本人選手の中で、最も金メダルを獲る可能性が近いのは誰か?と問われれば、大部分の人が内村航平の名前を挙げるだろう。
19歳の時に出場した北京五輪の個人総合こそ、銀メダルに終わったが、2009年のロンドンから2015年のグラスゴーまで世界選手権の個人総合を6連覇し、2012年にはロンドン五輪の個人総合をも制している。

ロンドン五輪の内村の個人総合の得点は92.690。
以降昨年までの世界選手権の得点は

2013年世界体操 91.990
2014年世界体操 91.965
2015年世界体操 92.332

2013年以降はいずれも2位は選手が91点に満たず、1.5点以上の大差がついている。
仮に1度落下しても金メダルを獲ってしまうということだ。

2015gym 

では、リオデジャネイロでも盤石ではないかと言われるかもしれないが、ウクライナにオレグ・ベルニャエフという選手がいる。

1993年生まれなので、ソ連崩壊後に生まれた世代だ。
18歳で出場したロンドン五輪の個人総合は88.964点で13位だったが、五輪直前の欧州選手権では90.300点で欧州王者になっていた。

今のウクライナはソ連時代とは異なり、国家のスポーツに対する支援はゼロに近く、代表チームにトレーナーも医師も常駐していないような状況らしい。
平行棒のスペシャリストとして知られ世界選手権では種目別平行棒で14年優勝、15年2位。
個人総合では4位あたりが多くメダルに一歩届かないようだ。
が、昨年韓国の光州で行われたユニバーシアードでは92.075を出し、個人総合を制した。
92点を超す点数は内村以外の選手では見たことがない。

リオデジャネイロでは個人総合の対抗になる存在であり、五輪後は多くのスポンサーが付き日本選手の前に立ちはだかる存在になるだろう。


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August 01, 2016

リオデジャネイロ五輪はこれを見逃すな④ ルーマニア女子体操11大会連続金メダル獲得なるか 

体操競技で過去五輪10大会連続して金メダルを獲った国がある。
ロシアか、日本か、米国か、答えはルーマニアである。

80年代は五輪にとって不幸な時代であり、1980年モスク大会、1984年のロサンゼルス大会とボイコットの応酬による片肺の大会が続いた。
そのため、旧ソ連、日本、米国、中国などの体操強国もどちらかの大会は出場していない。

その中で、ルーマニアだけはロサンゼルス五輪に参加し、1976年から2012年まで10大会連続で金メダルを獲るという偉業を更新中だ。
1976年はモントリオール五輪の開催された年であり、この大会で五輪デビューしたのがナディア・コマネチである。
ルーマニアは2012年のロンドン五輪まで、女子団体では必ずメダルを獲っていたほか、個人総合か種目別で1個以上の金メダルを獲っていた。

ところが、モントリオール五輪から40年を迎える今年のリオデジャネイロ五輪、ルーマニアの連続金メダルに赤信号が灯っている。

五輪の団体に出場できる国は男女12.
まず五輪前年の世界選手権(2015年はグラスゴー)で上位8カ国がリオ五輪出場権を得たが、ルーマニア女子は13位に終わり、出場権を得る最初の機会を失った。

次のチャンスは今年4月にリオデジャネイロで行われた五輪最終予選。
危機感を強くしたルーマニア体操協会は、団体金メダルに輝いた2000年シドニー、2004年アテネ両五輪で監督だったオクタビアン・ベルを呼び戻し、アテネ五輪で3個の金メダルを獲得し、ロンドン五輪にも出場したカタリナ・ポノル(28)が現役復帰させたにも関わらず7位。
上位4か国に与えられた女子団体の五輪出場権を逃してしまった。

ルーマニアの連続10大会金メダルに次いでいたのは旧ソ連。
1952年から1980年まで女子団体で8連覇をしていたが、ロサンゼルス五輪を報復ボイコットし、1984年に連続金メダルは切れた。
ソウル五輪に復帰し団体を制した後、1991年にソ連が崩壊、翌年のバルセロナ五輪には旧ソ連の独立国家共同体EUNとして女子団体金メダルを獲った。

この時のEUNのメンバーの中には、オクサナ・チュソビティナがいた。
チュソビティナはEUN⇒ウズベキスタン⇒ドイツと国籍を変えるも五輪出場を続け、この度のリオ五輪予選でも出場権を獲得、この夏はウズベキスタン代表、41歳で体操史上最多となる7度目の五輪を迎える。


現在の女子体操は、中国と米国の2強時代。
旧ソ連の後継であるロシアも両国の後塵を拝している。

ルーマニアだが、連続金メダル獲得が完全に途絶えた訳ではない。
女子団体の出場は叶わないが、個人の一人の枠は確保している。
男子二人ともに辛うじて個人の枠を確保しリオ五輪に参加する。
カタリナ・ポノルが個人総合と種目別でメダルを目指すが、何と言っても28歳。
彼女が金メダル3個を獲ったアテネ五輪は「栄光への架け橋」で日本男子団体が金メダルを獲った12年前。
当時の日本チームで現役の選手はもちろんいない。
カタリナ・ポノルもどこまで往年の演技ができるか判らない。

Gym2016

表の見方:ルーマニア、ロシアは両国の女子団体の順位。ロシアには前身のソ連、EUNを含む。
個人(総合)、床、跳馬、段違い(平行棒)、平均台の欄は、それぞれの種目で金メダルを獲った国のうち、ルーマニアとロシアを記した。

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October 18, 2011

2011年第43回世界体操競技選手権大会 結果

20111
20112


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October 13, 2011

内村航平は少し種目を絞っても良いのではないだろうか

ロンドン五輪の団体と個人総合の金メダルをめざす内村航平だが、今大会 少し負担が大き過ぎではないだろうか。
昨日行われた団体決勝は、6-3-3制といわれる(6選手のうち各種目に3人が出場し、全得点がチーム得点となる)方式で行われた。
このやりかたは2004年のアテネ五輪以降行われているのだが、各国とも6人の代表選手は、得意な種目に絞って出場する。
現在の体操は、スペシャリスト化が進み、かつてのようなすべての種目をこなすオールラウンダーが少なくなってきている。
昨日の決勝に出場した8カ国48名の選手の内、全6種目に出場した選手は、果たして何人いたと思われるだろうか?
答えは内村ただ一人である。

内村は団体予選で6種目、同決勝で6種目、3連覇を狙う個人総合で6種目、さらに種目別では床、あん馬、つり輪、平行棒、鉄棒と5種目で決勝進出を果たしている。
合計するとこの大会開催中に23種目に出場するということになる。

内村とてすべての大会でこんなフル活動している訳ではない。
昨年のロッテルダムの世界選手権の団体決勝(日本は2位)では、つり輪は出場していない。
ロッテルダムの団体決勝で、6種目すべてに出場したのはドイツのフィリップ・ボーイのみ。
この選手は個人総合で内村に2点強及ばず2位になった選手だ。
その結果を見ても、世界の体操界からオールラウンダーが少なくなっていることが見えてくる。
というよりも、あまりに難易度が高くなりとっても6種目も手が回らないのだろう。
その一方、スペシャリストを揃えた中国の、個人総合予選の最上位選手は滕海浜の18位。
団体の予選すら6種目出場したのはこの選手しかいないのだ。

種目別で金メダルを量産しようとする中国と、体操の醍醐味はオールラウンダーだとする日本との意識の差が表れている。
内村は現在22歳、史上最高クラスの体操センスを持ち、若く体力には自信があるだろうが、エースで迎える五輪の重圧は、地元開催の世界選手権とも異なるものだろう。
万全で闘うには少し種目を絞っても良いのではないだろうか。

内村以前にオールラウンダーにこだわっていたのは冨田洋之。
ご存じアテネ五輪団体金メダルの立役者だが、アテネの団体決勝では彼の中では不得手といわれていた床には出場しなかった。
そして北京五輪個人総合上位8人が、団体決勝で出場した種目を表にすると次のようになるのだ。
決勝団体の6種目すべてに出場した選手はいない。

Gym2008


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October 12, 2011

開催が危ぶまれていた世界体操東京大会

東京で開催中の世界体操選手権 東京開催が決まったのは2007年5月。だが3.11を受けて開催が危ぶまれていたのはご存知だろうか。

地震発生・原発事故から10日後の3月21日から世界フィギュア東京大会の開催が予定されていた。
地震翌日の11日にはISUのチンクワンタ会長が東京開催懸念を表明、日本スケート連盟はISUから今秋の代替開催を打診されたが辞退。
結局この大会は、4月にモスクワにて代替開催された。

これが前例となり、日本で開催を予定されていた各種競技会は軒並み開催の是非が問われることとなった。
世界体操の東京開催に難色を示したのはロシア。

チェルノブイリ事故の記憶が強いのだろうか?
原発事故が収束していないことを理由に開催地の変更を迫ったのだ。
これに対しFIG(国際体操連盟)のサンノゼで開かれた評議会に、日本体操協会の二木英徳会長、文部科学省の競技スポーツ課長、JOC、東京都の代表等が出席し、放射線量の測定データなどを示して東京の安全性をアピールし理解を得た。
読売新聞に次のような記事がある。

文科省の担当者が一競技団体のために国際会議に出席するのは異例のことだという。 欧州のある理事は「日本政府が安全だと確信させてくれた。そのことが最も重要だった」と言う。 日本協会は、4月25日から各国協会など約190ヵ所に7か国語に訳した「ニュースレター」を9回配信した。 東京と世界主要都市の放射線量に差がないこと、主要国内スポーツが震災後も行われていることを伝える内容だった。 さらに渡辺守成専務理事が4月にベルリンに渡り、グランディFIG会長らに状況を説明。今月上旬にはベネズエラ、カタールにも出向き、中南米や中東の理事の理解を得た。(2011.05.24)


2016年東京五輪招致を見ていても、日本は国を挙げて五輪を呼び込もうという意欲に欠けていたと思う。
その一方で、世界体操の東京開催をオールジャパンで訴え、守ったことは、この大会に一競技会を超える重要性があると日本政府が考えたのだろう。
であるならば2020年の東京五輪招致は、震災後の日本の姿をどのように世界に発信していくか、さらに重要なファクターになると思う。

●参考 直近の世界体操選手権の参加国・選手数
2007年 シュツットガルト大会 84カ国 約600人
2009年 ロンドン大会 72カ国 437人
2010年 ロッテルダム大会 73カ国 619人
2011年 東京大会 81カ国 533人
東京大会が参加国・選手数ともにこれまでの大会と遜色ないことがわかる。


実は、世界体操選手権には余りよくない思い出がある。
2001年9月11日 アメリカ・ニューヨークにて同時多発テロが起きた。
そのひと月後、ベルギーのヘントで世界体操が開催された。
当事国のアメリカチームもぎりぎりで参加を決めた中、日本とプエルトリコのみが「テロの危険がある」との理由で不参加を決めた。

果たして恐れていたようなことは何も起らなかったのだが、当時日本体操協会はこういったコメントをしている。
「何も起こらないという保証はなく、人命の安全を最優先した。個人参加の道を選んでも、やはり何か起きてしまえば協会の責任だ」

9.11から10年経った東京に、同じ理由で来なかった選手団はなかった。
2001年大会は通常の世界体操だったのだが、(仮に同時多発テロが2003年に起きて)2003年大会の参加の是非が問われていたとしたら、日本体操協会はどういった判断をしただろうか?
2003年大会はアテネ五輪の予選を兼ねて開催されたのだ。
2003年大会で日本男子は団体3位に入りアテネ五輪の出場権を得、翌年のアテネ五輪では、28年振りに団体金メダルを獲得するのである。

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October 11, 2011

英国体操界のホープは ロンドン五輪に出場できるか?

東京で開催中の世界体操選手権。日本チームは男女共に上位8カ国に入り、来年のロンドン五輪の出場権を手にした。

ここで気付いたことがある。
これまで五輪体操の団体出場権は、五輪前年の世界体操の上位12カ国に与えられてきた。
例えば、日本女子は1999年天津世界体操13位、2003年アナハイム世界体操14位といずれも上位12カ国に僅差で届かずに、五輪出場権を得ることができなかった。
その一方、2007年のシュツットガルト世界体操では12位で、最後の枠を得ている。
今回の東京世界体操で決まったロンドン五輪の出場権は、上位8カ国のみ。
残りの4カ国は、来年早々にロンドンで開催されるプレ五輪イベントで決まる。

2年前の世界体操で、内村航平に次いで2位に入った(下記表参照)ダニエル・キーティングスを擁するイギリス男子チームは、東京世界体操では10位に終わり、まだ五輪出場権を得ていない。
地元ロンドン五輪出場権をプレ五輪に賭けることになる。
出場国は東京での9-16位。

ここで気付かれた方もいるだろう。
球技とは異なり、体操団体は開催国の出場権はないのだ。
近年の五輪でも

2000年シドニー五輪 豪州男子は出場権獲れず(女子は7位だった)
2004年アテネ五輪 ギリシャ男女とも出場権獲れず

といった結果が残っている。
もっともアテネ五輪のギリシャは2選手が地元の五輪に挑んだ。
その中につり輪のスペシャリスト ディモステニス・タンパコスがおり、2003年の世界体操に続いて種目別で金メダルを獲っている。

2009gym
3位に入ったリャザノフは大会終了後自宅への帰宅途中事故死した。

Gymwj

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