オリンピックの謎

April 20, 2016

勝負を超えた、友情のメダル

1936年ベルリンオリンピック。陸上・棒高跳びの決勝は、小雨の降る中5時間30分に渡って行われた。
アメリカのメドウスが4メートル35を成功させて金メダルを獲得し、日本の大江季雄と西田修平は、それぞれ4メートル25を成功させ、銀メダルと銅メダルが確実となった。
この時、時計は既に午後9時を回っていた。本来ならこの後、大江・西田両選手で2、3位を嬉定させるため試技を続けることになるが、日本人同士でこれ以上争うことはないとして試技を行わず、先に4メートル25をクリアした年長の西田を2位に、大江を3位とすることを申し合わせたのだ。

ところが翌日、表彰式の場で西田は大江に道を譲り、2位の位置に立たせたのである。
帰国後、2人は獲得した銀メダルと銅メダルを半分に剖ってつなぎ合わせた。これが「友情のメダル」として後世まで語られることとなる。
 
西田が若い大江の首に銀メダルを架けさせたのは、4年後に開催が決まっていた東京オリンピック(1940年)への期待を込めての配慮だったと見られている。だが、その東京オリンピックは日中戦争のため返上(のちに中止)、大江自身も1939年に陸軍に召集され、1941年にフィリピン・ルソン島で亡くなった。

「友情のメダル」と言うと、先の西田・大江のエピソードが有名だが、他にも友情のメダルは存在する。
1976年モントリオール大会。女子バレーボール全日本チームは、白井貢子と前田悦智子の世界的大エースを、セッターの松田紀子が自在に操り、失セットゼロという圧倒的な強さで優勝した。ところが、この大会で獲得した金メダルを、松田は2つに割ってしまったのである。
 
実は松田は、元々セッター未経験の選手だった。そんな松田にセッターのイロハを教えたのが、所属していた日立の同期、永木芳子である。永木の存在なくして、セッター松田はなかったのだ。世界の頂点に立つ名セッターとなった松田は、獲得した金メダルを半分に割り、苦楽を共にした永木へ、半分を贈ったのだった。

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アジア初のオリンピック・東京大会

52年前の1964年、束京オリンピックが開催された。
「世界中の秋晴れを、全部東京に持って来てしまったような、素晴らしい秋日和でございます」
NHKの北出 清五郎アナウンサーの名文句に始まる開会式は、オリンピック史上初めて人工衛星を通じ、全米、カナダに同時中継された。「東京オリンピックをテレビで」を合言葉に、テレビが爆発的に普及。NHKの受信料契約数は1960年の686万から、1965年には1822万件にまで跳ね上がっている。茶の間でスポーツを楽しむ時代はここから始まったのである。
 
アジア初のオリンピックである1964年の東京大会だが、実はさかのぼること24年前、1940年大会の開催地に東京が決定していた経緯がある。
この時は日中戦争の影響で、開催を返上した。その後終戦を経て、1960年大会の開催地に名乗りを上げるものの、ローマに完敗。翌1964年大会に再び立候補し、デトロイトやブリュッセルを抑えて招致が快定した。
 
オリンピック開催は、戦後の高度経済成長を勢いづけた大きな原動力と言える。首都高速道路や東海道新幹線などの整備を含め、1兆円が大会準備に注ぎ込まれた。この時期のオリンピック開催は、海外へ日本の復興を大きく印象付けたはずだ。
 
大会には、93カ国と地域から5133人が参加した。
南アフリカ、インドネシア、北朝鮮、中華人民共和国などが参加していない。
また、当時ドイツは、東ドイツと西ドイツに分断されており、日本は東ドイツと国交がなかったため、両国は統一ドイツとして参加している。この統一ドイツ選手団は、1956年のコルティナダンペッツォ冬季五輪から1964年の東京五輪までの6回の五輪で組まれた。
1960年代にはドイツのほかにも分断された国家がいくつかあった。
当時中国は、日本と国交はないばかりか、IOCを脱退中で東京五輪に参加をしていない。
さらに中国は、東京五輪開催中の10月16日に核実験を行い、世界を驚かせた。
日韓は1965年になって基本条約を結んでおり、1964年の東京五輪開催時には正式国交はなかったが、東京には154人の大選手団を送ってきた。
南北に分かれていたベトナムは、西側にあった南ベトナム(ベトナム共和国)のみが参加している。
Doitu

では、2020年の東京五輪はどうなるか。
夏季大会で従来、28を上限としていた競技数による規制を緩めるが、競技数は310種目、参加選手数は10500人を上限とすることが決まっている。
1964年の東京五輪に比べて選手数は2倍、種目数も2倍弱の大会となる。

Tkosochi

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April 18, 2016

聖火リレーの歴史

オリンピック開会式前のハイライトとなっている聖火リレー。古代オリンピックでは、競技の間、聖火はゼウスの神殿祭壇にあった。競技開始の前には、招待状を携え休戦を告げる平和の使者たちが各地を走ったという。
 
◆聖火リレーの始まり 1936年・ベルリン大会
近代オリンピックでは、ヒトラー政権下の1936年ベルリン大会において、故事を生かした聖火リレーが考案された。古代オリンピック遺跡のヘラの神殿跡で、太陽光線を凹面鏡で集めて採火、ランナーに手渡す儀式が行われた。
 
ギリシャのオリンピアからベルリンまでは3000キロ。ナチスの国民啓蒙宣伝省が綿密な計画を立て、ドイツ国境から首都ベルリンにかけて壮観な演出が施された。
オリンピアからナチス直轄のラジオ局が同行し、暑さで機材を溶かしながらリレーの様子をドイツに伝えている。
ベルリンに入ると、2万5000人の青年隊と約4万人の突撃隊員が聖火を出迎えた。こうして、世界的な関心を集めた聖火リレーは、オリンピ″クプロパガンダ最高の広告塔となり、今日のオリンピックの先例となったのである。

◆1964年・東京大会
東京オリンピックでは、開会式(10月10日)の約2ヵ月前に当たる8月21口に、採火式がギリシャのオリンピア・ヘラ神殿跡で行なわれた。翌日、アテネに到着した聖火は、日本航空の聖火空輸特別機シティ・オブ・トウキョウ号に積まれ、アジア各地を経由しながら東京を目指すこととなった。
アテネ→イスタンブール→ベイルート→テヘラン→ラホール→ニューデリー→ラングーンバンコク→クアラルンプール→マニラ→香港→台北と11の中継地を経て、9月7日に沖縄(当時、沖縄はまだ日本に返還される前である)に到着した。
日本国内では4ルートに別れてリレーが行われ、実に10万713名もの人が参加した。

◆1998年・長野冬季大会
1972年の札幌オリンピック以来、26年ぶりに聖火が日本を駆け巡った。開催まで
1カ月余に迫った1月、沖縄県糸満市、北海道杜幌直、鹿児島県鹿児島市の3ヵ所を出
発した聖火は、33日間をかけて46都道府県を通過し、長野県に入った。
 
長野県内では120全市町村をくまなく回り、オリンピック開会式前日の2月6日、長野市で1つになった。この間、全国で約7000人のランナーが聖火を繋いでいる。
 
長野オリンピックでは、走行中に度々聖火が消えたことが話題になった。トーチのガスボンベのねじが緩んだことや、想定外の強風などが原因だったが、いずれも種火から採火し直してリレーを継続、事なきを得た。
 
◆2004年・アテネ大会
聖火の採火式が行われるオリンピアから、オリンピックが開かれるアテネまでは車で約5時間。聖火リレーは史上最短のコースとなるはずだった。だが近代オリンピックが発祥の地に戻ってくる特別な大会ということもあり、聖火リレーも特別なものにしたいと考えたアテネオリンピック組織委員会が、世界1周聖火リレーの実施を打ち出した。
オリンピアで採火された聖火は、前回のオリンピック開僣地であるシドニーを皮切りに、過去の全夏季オリンピック開催都市を含む、5大陸36都市を回った。
総延長は7万8000キロ。108年ぶりに発祥地へと帰還するオリンピックを迎える、空前のスケールの聖火リレーとなったのである。
 
この大掛かりな試みに、IOCのスポンサーのサムスンとコカコーラが協力を申し出た。これまでもシューズの提供など小規模なスポンサー絡みの例はあったが、史上初めて世界5大陸を回る国際ルートは、IOCのスポンサーなくして成り立たない大イベントだったのである。

◆2008年・北京大会
中国は、北京オリンピックを歴史上最も目立つオリンピックにすることを目標に掲げていた。一大国家事業として、対外的には国際的地位の向L、内向きには愛国心の高揚を狙ったものである。史上最長距離となる13万7000キロのルートでは、世界最高峰のチョモランマ(英名エベレスト)を越えるという壮大な計画もあり、「他のどの国にも真似のできないオリンピック」を象徴するものとなるはずだった。
ところが、中国の抱える人権問題、特に、チベット騒乱への弾圧に抗議するグループによる抗議活動が世界各地で起こり、聖火リレーは物々しい雰囲気の中で行われている。さらに、リレーが中国国内に移ってからの5月12日には、6万人以上が犠牲となった四川大地震が発生。被害の大きい場所では聖火リレーの中止や規模の縮小を余儀なくされた。予定通り行われた場所でも、リレーの前に黙梼を捧げる姿が見られた。

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フィギュアスケートとアイスホッケーが夏季大会で行われていた?

冬季オリンピックは、1924年のフランスのシャモニー・モンブランオリンピックが第1回大会である。

ところが、オリンピックでのフィギュアスケートの初代金メダリストは、冬季オリンピックがスタートする15年以上前の、1908年・ロンドン大会で誕生している。つまり、夏季大会でフィギュアスケートが行われていたということだ。

1908年のロンドンオリンピックでは、陸上競技や水泳、体操といった夏季大会お馴染みの競技に混じって、フィギュアスケートが初めて行われた。
ロンドン大会は4月27日から10月31日という長期間にわたって開催したが、フィギュアスケートは閉幕間際の10月28日と29日の2日間に屋内リンクで行われた。この時金メダルを獲得した選手が、スウェーデンのウルリッヒ・サルコウ。名前を聞いてピンときた人もいるだろう。フィギュアスケートのジャンプの1つ、サルコウジャンプは、彼の名前から付けられたものである。
 
ウルリッヒ・サルコウは、1901年から1905年、1907年から1911年の計10年間で、世界フィギュアスケート選手権で5連覇2回を含む、10回の優勝をしている。オリンピックでのメダル獲得はロンドン大会の1回だけだが、翌年の1909年には、後世に受け継がれるサルコウジャンプを成功。フィギュア界を語る上でなくてはならない選手なのだ。
現役引退後は、1925年から1937年の間、国際スケート連盟の会長としても活躍している。

アントワープオリンピック(1920年)でも、フィギュアスケートとアイスホッケーが行われた。アイスホッケーは7カ国が参加し、カナダが優勝した。
アイスホッケーの試合が行われたのは4月、オリンピックの閉会式は9月に開かれている。これは氷上種目のために時期をずらしているのではなく、先述のロンドン大会もそうであるように、当時は大会期間そのものが半年くらいの長期開催だったためだ。
 
4月から競技を実施しているのだから、巌密に言うならば「夏季オリンピック」ではなく「春夏季オリンピック」だったことになる。

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プロ化によって破滅した古代オリンピック

近代オリンピックは2012年のリオデジャネイロ大会で120年目。長い歴史を誇る大会となったわけだが、近代オリンピックの前身である古代オリンピックは、1200年近く、延べ293回に渡って行われている。古代オリンピックの歴史から比べれば、近代オリンピックの歴史はまだ浅いと言えるだろう。
古代オリンピックか始まったのは紀元前9世紀頃、最高神ゼウスをはじめとする神々に捧げる大会であったと考えられている。開催地は古代ギリシャの都市・オリンピア。
その他にも、デルポイ、イスモス、ネメアといった場所で行われていた大会と合わせて、四大祭典競技と呼ばれている。

古代オリンピックは当初1日だけの祭典で、それも短距離走のみが行われていた。後にボクシング、レスリング、戦車競技など競技数が増え、日数も5日間と増えている。
レスリングやボクシングは制限時間がなく、ボクシングに至っては、鋲のついた革のひもを手に巻きつけて殴りあうという、非常にハードな種目だったようだ。

そんな古代オリンピックに参加できる者は、ギリシャの都市国家や植民市の市民権を持つ男性に限られていた。女性の参加は認められていなかったのだ。能力があれぱ、人種・性別に関わらず出場できる現在のオリンピックとは大きな違いである。

さらに、参加選手には10ヵ月間の訓練に励むことが義務付けられる。
開催前の1ヵ月間は、オリンピア近郊のエリスで強制訓練が行われた。現在でも、選手は試合に備えて強化合宿を行ったりするものだが、強制で訓練が行われるというのは、やはり神々に捧げる大会という意昧合いが強いためだろうか。訓練には食事制限や、60キロ
にも及ぶ徒歩行軍があり、鍛え方が足りないと失格する選手も出たという。

巌しいトレーニングを経て大会に出場し、晴れて優勝した者には、ゼウスの神木とオリーブの枝で綱んだ葉冠が与えられた。葉冠にオリーブが選ばれているのは、ヘラクレスが常春の地から持ってきた木がオリーブであり、水の少ない地でも枯れることがないことから「不死」を象徴していたためと言われている。

古代オリンピックの競技順位には「優勝」しかなく、銀・銅メダルも存在しなかった。
ストップウォッチなど当然ないので、世界新記録も存在しない。記録よりも「勝つ」ことが重要だったのであろう。
そんな古代オリンピックだが、回を重ねるうちに、「プロ選手」が登場するようになる。スポンサーもテレビ放映権料もない時代に、なぜプロがいたのか。

実は、優勝して各都市国家に帰った選手には、巨額の報酬やさまざまな特別待遇が与えられていたのである。オリンピック以外の競技大会では、賞金代わりの物品が出される大会も多い。優勝者の銅像や報奨金、家まで与えられていたようだ。さらに、英雄として崇められ、イベントに呼ばれればギャランティをもらっていたという。ここまでくると、現在のプロ選手と何ら変わりはない。

プロ選手の台頭、商業主義、勝利至上主義。
神々に捧げる祭典であったはずの古代オリンピックに、自己の名誉と報酬を目的に選手が参加するようになってしまった。さらに出身ポリスの意地がかかり、選手の売買や不正で腐敗が進み、古代オリンピックは紀元393年に消滅したのであった。

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オリンピックはなぜ4年に1回なのか

オリンピックが4年に1回開催であることは、周知の通りである。だが、なぜ4年に1回なのかはあまり知られていない。区切りのいい5年や10年でも良さそうなものだが、1896年の第1回以降、ずっと4年周期で開催されている。ここではその理由を見ていきたい。

結論から言うと、4年で1回という周期は、古代ギリシャの4年を1期とする暦年「オリンピアード」に由来している。その名前から、オリンピックと深い関係がありそうなことが伺えるだろう。
近代オリンピックの原型とも言える古代オリンピックは、毎回、オリンピアードのー年目に開催されていた。つまり、オリンピックは最初から4年周期だったのだ。

近代オリンピックの提唱者であるクーベルタン男爵は、これに倣って、1896年を新しいオリンピアードの起点とし、近代オリンピック第1回大会を開催した。以後、ずっとその慣習が残っているというわけだ。
「オリンピアード」という言葉は、「オリンピック後に続く4年間」という期間を指す場合と、「オリンピック競技大会そのもの」を指す場合とがある。

「第18オリンピアード」と言えば、第18回オリンピック、つまり1964年の東京オリンピックを表すことになる。何らかの理由で、オリンピアードの一年目に大会が開催できない場合、残りの3年間に開催されることはなく、回数だけがカウントされる。歴代の近代オリンピックを見てみると、第6オリンピアード(1916年・ベルリン大会)、
第12オリンピアード(1940年・東京大会)、第13オリンピアード(1944年・ロンドン大会)が、戦争により中止となっているが、回数はそのまま残されており、欠番状態となっている。
このように、4年に1回開催のオリンピックであるが、一度だけ2年後に行われた大会がある。1994年のリレハンメル冬季大会だ。

リレハンメル大会までは、夏季大会と冬季大会が同じ年に行われていたが、1986年のIOC総会において、時期を変えて開催することが決まった。夏季大会に関心を奪われがちな冬季大会の相対的地位を上げようとする狙いがあったのである。
この案には、夏と比較してスポンサー探しに苦慮する欧米のテレビ資本からの圧力があったとも言われている。
ちなみに、リレハンメル大会を除いた冬季オリンピックは、夏季と同じく4年に1回の周期で行われているが、これはオリンピアードに倣っているわけではない。

1924年のシャモニー大会を第1回とし、その後も開催順に番号がつけられているため、夏季大会のように欠番は出ていない。
このように、オリンピックが4年に1回だったおかげで、サッカーのW杯やアジア競技大会も、4年に1回、オリンピックの中間年に開催されるようになったのである。

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