新・冬季五輪の記憶

January 05, 2018

新・冬季五輪の記憶(8)  朝鮮半島出身者が過半数を占めた1936年冬季五輪スケート日本代表

1936 Garmisch-Partenkirchen

平昌は雪はあまり降らないものの、たいそう寒いと言う。
朝鮮半島の冬は厳しく、昔からスケートは盛んだった。

1910年に大韓帝国(朝鮮から国号を変更)は日本に併合され、1945年の敗戦まで日本の統治下にあった。
そのため、朝鮮半島出身選手が、日本代表として五輪に出場するといった例が少なからずあった。

最も有名な選手は孫 基禎氏(ソン・ギジョン、そん きてい、1912年8月29日 ~ 2002年11月15日)。
1936年のベルリン五輪に日本代表としてマラソンに出場し、世界記録の2時間29分19秒2で金メダルを獲得した。
このとき3位にはやはり朝鮮半島出身の南昇竜氏が入り、銅メダルを獲得している。

ほかにもベルリン五輪には、ベスト8に入ったサッカーには金容植氏が、ボクシング、バスケットボールにも朝鮮半島出身と思われる名前の選手がいる。
当時、朝鮮半島出身者で日本人を上回る技能を持つ選手がいても、日本人選手を差し置いて日本代表になることは、極めて少なかったと言われている。

戦前は、夏季五輪開催国には優先的に冬季五輪開催権が与えられ、1936年はドイツ・ガルミッシュパルテンキルヘンで冬季五輪が開催されている。
当時の冬季五輪ではスキー、スケート(スピード・フィギュアスケート)、アイスホッケー、ボブスレーの4競技しか行われていない。
しかも、まだ女子は実施されず、男子だけだったスピードスケートの日本代表として出場した選手の過半数が、驚いたことに朝鮮半島出身者だった。

上記のようなベルリン五輪の代表選考の過程を見ても、半島出身者の実力は、日本人を圧倒していたと推測できる。
ちなみに、アジアで最初にスピードスケートのメダルを獲ったのは、1964年のインスブルック五輪女子3000mの韓弼花(北朝鮮)の銀メダルである。

92718
▲ガルミッシュパルテンキルヘン冬季五輪日本代表 金正淵氏の死去を伝える東亜日報の記事。(1992年7月18日付)

●1936年ガルミッシュパルテンキルヘン冬季五輪 スピードスケート日本代表選手結果
500m
4.石原省三 11.中村礼吉 16.李聖徳 22.南洞邦夫
河村泰男=失格

1500m
15.金正淵 19.石原省三 23. 李聖徳 28.河村泰男

5000m
21.金正淵 27.李聖徳 27.張祐植 31.南洞邦夫

10000m
13.金正淵 25.李聖徳 26.張祐植

*この当時1000mは実施されていない。

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December 31, 2017

新・冬季五輪の記憶(7) ダン・ジャンセンの軌跡

1992 Albertville


冬季五輪にも様々なドラマがある。
1回の五輪で5個の金メダルを獲った男もいれば、1個の金メダルを取るのに4回の五輪に出た男もいる。
 
男の名前はダン・ジャンセン。
五輪の歴史において、ダン・ジャンセンは悲劇のヒーローとして記憶に残っている。
 
1988年、2月14日。
米国ミルウォーキーの病院でジェーン・ジャンセンが白血病のために亡くなった。
27歳。ダン・ジャンセンの姉である。この1週間前、ジャンセンは500と1000mを2回ずつ滑る世界スプリント選手権で総合優勝を遂げ、姉ジェーンにその報告をしていた。

カルガリー五輪2日目、ダン・ジャンセンは選手村で姉の悲報を聞き、その数時間後、スピードスケート500mのスタートラインに立った。
2組インスタート。
当時、500mは1回のみのレースで順位が確定した。そのため、インコースかアウトコースかで明らかな有利・不利があると言われていた。
ジャンセンは100mを9秒95で通過したが、第1コーナーで転倒してしまった。

サラエボ五輪で惨敗した黒岩彰が銅メダルを獲り、雪辱を果たした。
日本の新聞には黒岩の文字が大きく踊る脇に、ジャンセンの小さな記事が載った。

4日後の1000m。
翌日には、ジェーンの葬儀が予定されていた。

ダン・ジャンセンに金メダルを

米国メディアは合言葉のようにくり返していた。
米国オリンピック委員会が、彼の帰国のために特別機をチャーターした。
600mまで44秒02。
世界記録を0秒38上回るペースだった。しかし、最終コーナーで再びバランスを崩し倒れてしまった。
 
1992年、雪辱を期したアルベールビル五輪、500mはウーべ・メイ(東独=当時)が金メダル。
銀メダルは黒岩敏幸、銅メダルには井上純一が入った。
が、ダン・ジャンセンは4位。

米国の新聞にジャンセンは、スケートでなくスキーを履いていたと酷評された。
さらに、1000mは屈辱の26位に終わった。
 
この後、冬季五輪は夏季五輪の中間年に開催されるようになり、2年後、1994年にリレハンメル五輪が巡ってきた。
500mは6年前と同じ2月14日だった。
ダン・ジャンセンがリンクに姿を見せた。
彼は、生後9カ月の長女を連れて大西洋を越えてきた。
長女の名は、「ジェーン」。もちろん姉の名前から取った。
「2人のジェーン」のために、ジャンセンは4度目の五輪に挑んだ。
実力は、間違いなく世界一だったろう。
35秒76、スラップスケート以前の当時としては驚異的な世界記録を持ち、直前にカルガリーで開催された世界スプリント選手権も制していた。
ところが、第2カーブの入り口で、左足のエッジの先端が氷に突き刺さる。

バランスが崩れた瞬間、左手の3本の指がリンクにつく。36秒68。8位だった…。

専修大の学生だった堀井学が銅メダル、まだ19歳だった清水宏保が5位に入った。
実力がありながら、メダルに縁のない選手もいる。
ジャンセンもそんな選手の一人。周囲にそんな雰囲気が漂い始めていた。
 
リレハンメル五輪1000m、ダン・ジャンセンの最後のレースが始まった。
700m付近で、ジャンセンは、またスリップした。左手を2度、氷についた。
しかし、転倒することはなかった。
リズムを取り戻し、最後の直線でさらに加速した。
1分12秒43。世界新記録。
8回目のレースで金メダルに手が届いた瞬間だった。
 
リンクサイドで生後9カ月のジェーンを抱いた妻ロビンが号泣している。
ジャンセンの人生観の中で、最も価値が高いものが「家族」であることを、そのことが象徴している一瞬だった。

だが、この話にはオチがある。
金メダルを取って、実業家としても成功したジャンセンは忙しくなり、家族とすれ違いが多くなり、そして離婚してしまった。


カルガリー五輪の500mで、転倒したダン・ジャンセンに巻き込まれた選手がいる。
黒岩康志。
当時500mの日本記録を持っていたスケーターだった。

銅メダルの黒岩彰、銀メダル黒岩敏幸など、かつては黒岩姓のスピードスケートの選手が多くいた。
いずれも群馬県の出身だが、特に姻戚関係はない。

ジャンセンの転倒に巻き込まれ、再レースを要求するも却下される。
4年後のアルベールビル五輪を目指すが、果たせなかった。

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December 26, 2017

新・冬季五輪の記憶(6) ジャンプメダル独占と4人目の選手

1972 Sapporo


東京が1940年の会五輪の開催を決めていながら、日中戦争のため返上したのはご存じだろう。
この当時は、冬季五輪も同じ年に夏季五輪開催国が開くことになっていた。
そのため、1940年の五輪は冬季が札幌、夏季が東京を予定していた。

東京は、1964年に念願の五輪を開催したが、札幌は東京から遅れること8年、1972年の大会を開催した。
当時、札幌市の人口は100万人に少し足らず、五輪閉幕後の1972年4月に川崎市、福岡市とともに政令指定都市に昇格している。

札幌五輪以前に、日本が冬季五輪で獲得したメダルはひとつ。
1956年コルチナダンペッツオ五輪のアルペンスキー男子回転で、猪谷千春氏が獲得した銀メダルが唯一であったが、スキージャンプチームは経験豊富な選手が揃っていた。

1970年の世界ノルディック選手権ビソケタトリ大会の70m級(NH)で銀メダルを獲った笠谷幸夫、同じく1966年のオスロ大会90m級(LH)で銀メダルを獲得した藤沢隆がいた。

特に笠谷は、1971~72年のジャンプ週間の4戦のうち3戦に勝利しながら、札幌五輪の調整の為に4戦目を欠場したが、世界の誰しもが認める金メダル候補であった。

70m級ジャンプにエントリーしたのは56人の選手。
日本から出場したのは下記の4選手である。

笠谷幸生 28歳(ニッカウヰスキー)
金野昭次 27歳(北海道拓殖銀行)
青地清二 29歳(雪印乳業)
藤沢隆 28歳(国土計画) 所属は当時の企業名

笠谷、藤沢は1964年、68年に続いて3回目の五輪。(但し藤沢の64年はノルディック複合)
金野、青地も1968年に続いて2回目の五輪だった。

ジャンプは2本跳び、その合計で争われるが、
1本目
①笠谷 84.0m 126.6pts
②青地 83.5m 123.3 pts
③金野 82.5m 120.2 pts
④藤沢 81.0m 117.8 pts

なんと1本目を終わって日本人選手が上位4位までを独占する。

2本目は下位の選手から跳び、上位につけた選手ほど後から跳ぶ。
4位につけていた藤沢が68.0m 90.0ptsの失敗ジャンプでメダル圏外へ。
3位につけていた金野が79.0m 114.6ptsで首位へ。
2位につけていた青地は77.5m 106.2ptsを跳び2位へ。
最後に跳んだ笠谷は金野と同じ79.0mながら117.6ptsの飛型点をマーク。
金野、青地を超えて金メダルを手にした。

当時、笠谷の飛型は世界一美しいと言われていたが、
5人の審判員は1本目、19.0、19.0、19.0、18.5、19.0
2本目、19.0、18.5、18.5、19.0、18.5
5人の審判の内、最高点と最低点を除いた3人の合計が採用されるが、ほぼ完璧に近いジャンプだった。

札幌五輪のジャンプメダル独占を知る世代の人に、メダルが獲れなかった藤沢隆氏のことを尋ねてもまず覚えていない。
藤沢の2本目は56人中46位、総合で23位という記録が残っている。

 札幌五輪70m級ジャンプ(NH)1972年2月6日
 ①笠谷幸生 244.2
 ②金野昭次 234.8
 ③青地清二 229.5
 ㉓藤沢隆 207.8

札幌五輪の90m級ジャンプ(LH)は、5日後の2月11日に行われた。
青地清二に代わって板垣宏志(国土計画)が起用されたが、笠谷7位、金野12位、藤沢14位、板垣19位と一人の入賞もできなかった。(当時の入賞は6位まで)
なお、ジャンプ団体は1988年以降に正式種目になっており、この時代には行われていない。

金野、青地、藤沢、板垣は、札幌が最後の五輪となったが、笠谷幸生は、1976年のインスブルック五輪にも出場。
32歳になった老雄の最後の五輪は、70m級16位、90m級17位に終わった。

なお、青地 清二さんは2008年8月14日札幌市内の病院で亡くなっている。享年66歳。

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December 19, 2017

新・冬季五輪の記憶(5) フィギュアスケート15歳の壁

1984 Sarajevo


スピードスケートの1500mの有力な金メダル候補である高木美帆は、1994年5月22日生まれの23歳。

2010年のバンクーバー五輪に出場、当時中学校3年生でのスピードスケート代表は、史上最年少と騒がれた。
4年後のソチ五輪は不振で代表から漏れたが、今回は圧倒的な強さで代表の座を手にし、五輪本番でも複数のメダルを獲るだろう。

2006年のトリノ五輪当時、15才だった浅田真央が、GPファイナルで優勝したにも関わらず、五輪出場条件を満たせなかったことは覚えておられる方も多いだろう。

少し意外な気もするが、スピード、フィギュアともISU国際スケート連盟が統括する競技であり、同じ年齢制限の対象となる。

ISUは、1996年6月の総会で、五輪出場資格をそれ以よりも1歳引き上げ「五輪前年の6月30日までに15歳」と定めた。
これによるとバンクーバー五輪は、2009年6月30日までに15歳に達していれば問題はなく、高木美帆は1994年5月22日生まれで条件をクリアしていた。

一方、トリノ五輪の際は、「2005年6月30日までに15歳に達している」ことが条件となり、1990年9月25日生まれの浅田は条件に87日足らず、五輪デビューが4年遅くなった。

ISUは「医学的見地から決めた」としているが、五輪競技の中で年齢制限を設けているのは女子体操の16歳以上、アマチュアボクシングの19歳以上40歳以下などごく小数しかない。

往年のフィギュアスケーターで、アルベールビル五輪銀メダリストの伊藤みどり(1969年8月13日生まれ)は、浅田と同じ名古屋市出身である。
当時、不世出の天才少女といわれた伊藤も年齢制限に引っ掛かったことがあった。
当時は現在よりも1年緩く、五輪は15歳以上とされていたのだ。

伊藤みどりは1984年のサラエボ五輪をめざしていた。
というよりも、伊藤の将来のことを考え、五輪を経験させてやりたいというのが関係者の本音だった。
サラエボ五輪を14歳で迎える伊藤には、本来五輪出場資格はなかった。
ところが、五輪の年の世界ジュニア選手権で3位以内に入れば五輪出場資格を認めるという特例があった。

日本スケート連盟は伊藤のために1983年の世界ジュニア選手権を札幌市に招致。
伊藤は、首尾よく3位に入り、五輪出場権を手にしたかに見えた。
ところが、当時シニアの世界では人材の乏しかった日本フィギュア。
女子の五輪出場枠は僅かに一人しかなかった。
全日本選手権で優勝することが五輪出場の条件とされた伊藤は、ショートプログラムで得意のダブルアクセルで転倒し5位、フリーで1位と追い上げだが、加藤雅子に次ぐ2位に終わった。
サラエボ五輪代表は加藤雅子が手にした(19位)。

伊藤みどりはその後18歳で出場したカルガリー五輪で5位、22歳で出場したアルベールビル五輪で銀メダルを獲得するのだが、アルベールビルのSPではトリプルアクセルで緊張のあまり転倒。
フリーでは、再度挑み成功。五輪の舞台で初めてトリプルアクセルを決めた女子選手となった。
とはいえ、SPの転倒がなければクリスティ・ヤマグチに勝てた、と今でも思う。

*調べてみると、15歳以下で五輪に出場した選手は数人いる。
稲田悦子 12歳 1936年ガルミッシュパルテンキルヘン五輪10位
八木沼純子 14歳 1988年カルガリー五輪14位
福原美和 15歳 1960年スコーバレー五輪21位 (1964年5位)
井上怜奈 15歳 1992年アルベールビル五輪ペア14位 (1994年シングル19位 2006年米国代表ペア7位)

ポスト金妍児の劉永(You Young 2004年5月27日生まれの13歳)も平昌五輪には出られない。
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December 12, 2017

新・冬季五輪の記憶(4) カナダ人の80%が見たアイスホッケー決勝

2010 Vancouver

面白いデータがある。
カナダの歴史上で最も多くの視聴者を集めたテレビ番組のランキングである。
10位までのうち、7つが2010年のバンクーバー五輪。

▼カナダにおける高視聴者番組ベスト10

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1964年の東京五輪が、押しなべて高視聴率だったというのは想像できる。
五輪に合わせてテレビが普及し、五輪にチャンネルを合わせ日本人選手の活躍に見入り、外国人選手の活躍に世界を垣間見た。

ところが、文字通りの先進国であるカナダで、夏冬合わせて3回目の五輪になぜそんなにも盛り上がったのか。

カナダのアイスホッケーが活躍したからだ。

アイスホッケーはカナダの国技である。
しかし、カナダはなかなか五輪チャンピオンになれなかった。
長い間プロの参加が認められていなかった五輸の舞台では、“ステートアマ”軍団のソ連が強く、金メダルから遠ざかっていた。

1988年の地元カルガリー大会からは、五輪へのプロの参加が認められたものの、NHLシーズンと五輪開催時期が重なるため、一流NHL選手は出場を見送ってきた。
カルガリー五輪の金メダルはソビエト、フィンランド、スウェーデンと続き、カナダは4位に終わっている。

バルセロナ五輪でのNBAのスター軍団の活躍に刺激され、NHLは五輪をショーケースと捉えるようになり、長野五輪以降は一流スター選手が五輪に乗り込んでくるようになった。
ただし、NHLに欧州のスター選手も所属するようになり、五輪に出場するチームはいずれもNHL選抜、なかなかカナダ言えども毎回金メダルが獲れる訳ではない。

1次リーグA組に入ったカナダはノルウェーに8-0で勝利、スイスに3-2で連勝するも米国に3-5で敗れ2位で決勝トーナメント(8か国)に進んだ。
まず予備選でドイツに8-2で快勝、準々決勝ではロシアを7-3と圧倒する。
準決勝のスロバキア戦は3-2で手堅く勝利し、決勝は再び米国と対戦。

ともにNHLのスター選手で固めたカナダと米国は、延長の末3-2でカナダが勝利した。
カナダの人口は約3400万人。
その内の80%、最大2650万人、平均でも1667万人のカナダ人がこの試合をテレビで見たという。
移民の多いカナダでは、9つネットワークが8つの言語で放送した。

一方、銀メダルの米国でも、視聴者数は記録的な数字となった。
アイスホッケーの過去最大の視聴者は、ミラクルオンアイスと呼ばれた1980年レークプラシッド五輪決勝 米国対フィンランドの3280万人。
この数字には及ばなかったものの、全米で2760万人の人が、TVの前に釘付けになった。
(ちなみに米国の人口は3億人を超える。)

来年の平昌五輪では、NHLのスター選手の活躍は見られない。
長野五輪以来5大会連続でNHLの選手が五輪参加してきたが、リーグ中断による経済的損失などを考慮し、平昌五輪には参加しないことになった。

NHLは世界市場開拓の一環として五輪に参加してきたが、NHLが実施したアンケートによると、リーグを中断しての五輪参加に反対するファンは米国で73%、カナダで53%に上ったという。
五輪開催時の2月は、リーグ戦の最中で、NFLや大リーグの公式戦がほぼない。
その時期に約2週間中断することは、チケット収入や放映権料など経済的な面から大きな損失となるとしている。


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December 07, 2017

新・冬季五輪の記憶(3) 銀盤の女王カタリーナ・ビット

1994

2018年の冬季五輪の開催地を平昌と争ったのがドイツのミュンヘン。
韓国は、平昌の顔に金妍児を前面に押し出したのに対し、ミュンヘンはカタリーナ・ビットで対抗。
招致争いは、新旧フィギュアの女王対決と呼ばれた。

カタリーナ・ビットは、1965年12月3日 旧東ドイツ・シュターケン生まれのフィギュアスケート選手である。
五輪2連覇、世界選手権4回優勝など、史上最も成功したスケーターの一人だ。

●カタリーナ・ビットの主な戦績
1984年サラエボ五輪   フィギュアスケート女子 金メダル
1988年カルガリー五輪  フィギュアスケート女子 金メダル
1994年リレハンメル五輪 フィギュアスケート女子 7位
世界選手権金メダル   1984・85・87・88年
世界選手権銀メダル   1982・86年

冬季五輪の女子フィギュアは、五輪の全ての競技の中でも、最も注目を集める種目といっても過言ではない。
 
古くは札幌五輪のジャネット・リン、インスブルック五輪のロドシー・ハミル、レークプラッシド五輪のアネット・ペッチ、アルベールビル五輪のクリスティ・ヤマグチ、そしてトリノ五輪の荒川静香
女子フィギュアは技と美をともに追求し、話題の中心であった。

五輪のフィギュアスケートは、1908年から正式種目に加えられている。
といっても、冬季五輪の第1回・シャモニー大会は1924年であり、初期は、夏季五輪の種目だった。
この長い歴史の中で、女子で連続優勝したのは、ビット以外には1928年から3連覇したノルウェーのソニア・へニーしかいない。
連覇が難しいのは、この競技の特殊性にある。
五輪の金メダルは、プロ入りのまたとない格付けになるからである。
五輪2連覇を果たし、プロ転向後再び五輪の銀盤に現れた、それがビットであった。

1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊するまで、カタリーナ・ビットは東ドイツの「顔」だった。
ミスのない演技。
サイボーグのように鍛え上げられた肉体。
端正な顔に浮かべられた勝つことを疑わない笑み。
西側のメディアはビットを「社会主義の最も美しい顔」と呼んだ。

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1998年 PlayBoy誌に登場したときのカタリーナ・ビット

カルガリー五輪金メダルの後、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長は、祖国功労大勲章でビットを迎え、彼女は東ドイツ選手として初の「プロ」になった。
サラエボ、カルガリーと五輪2連覇の実績、妖艶にして聡明さもうかがわせる容姿。
東ドイツのスポーツ界だけでなく、ホーネッカー議長に気に入られ、プロパガンダとして政治の舞台に上がることも多くなっていった。

東ドイツは五輪を、社会主義国家の優位性を示す国際舞台と位置付けていたのはご存知の通りだ。
金メダルを獲得した者には、報奨金などの多くの恩恵が与えられていた。
事実、ビットもいくつかの特別待遇を受けた。
月々の手当に、勝てばボーナスが加わった。
18歳で運転免許をとると、すぐに車が購入できた。 
国際大会は食物持参で参加をした。
競技会の主催者から支給される食費をため、東ベルリンの外貨用高級デパートで買い物をした。
ささやかではあるが、物々交換が当たり前の庶民には、民主化によって批判の対象となっていったのである。

1990年、東西ドイツが統一された。
スパイ疑惑、ドーピング(禁止薬物使用)疑惑、大衆紙による男性関係の話題。
気がつけば、元「特権階級」のビットはスキャンダルとゴシップにおぼれそうだった。
自らの真情を繰り返し訴えるしか、対する道はないと思われた。
そんな中「プロ転向後も1回だけ、五輪出場を許可する」というISUの決定が、ビットを五輪に戻した。
 
1994年リレハンメル五輪、金メダルはウクライナの16歳、オクサナ・バイウルに決まっていた中、ビットはフリー最後の選手として銀盤に立った。
鮮やかな赤いコスチュームは血の色を表す。
曲は「花はどこへいった」。ヒトラーを嫌って米国へ逃れたドイツ女優マルレーネ・ディートリヒが歌った反戦歌である。
3回転ジャンプは2回しかない。
代わりに、舞う指先の1本1本へ、戦禍に苦しむサラエボへ平和の祈りを込めた。
この1994年当時は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の真っ只中であった。
ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ政府の軍に対して、ボスニアのセルビア人の武装勢力が、丘の上に陣取ってサラエボを包囲していたのだ。
1984年 サラエボで最初の金メダルを獲ったビットにとって、思いでの地が血にそまっていることに耐えられなかったのだろう。

7位

順位を示す得点表示板へ、ハーマル円形競技場を埋めた6,000人の観客席からブーイングが飛んだ。
銀盤を渦巻いたファンの声はそのまま、ビットの演技をたたえる声に変わった。
この瞬間は、サラエボの犠牲者に対する祈りによる開会式で始まったリレハンメル五輪の、ハイライトだったと記憶している。


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December 06, 2017

新・冬季五輪の記憶(2) 女子フィギュアで初めてメダルを獲った日本人

 1976 Innsbruck

1980 LakePlacid

  1984 Sarajevo

今年引退した浅田真央のソチ五輪は6位で幕を閉じた。
五輪で6位というとこの人の名前を思い出す。

渡部絵美
「わたべ」ではなく「わたなべ」と読む。

渡部絵美さんといっても若い人は現役時代のことを知らず、元フィギュアスケート選手のタレントくらいにしか見られていないかもしれない。
1972年から1979年まで全日本選手権では8連覇。
ウィーンで開催された1979年の世界フィギュアでは、日本人女子として初めて銅メダルを獲得した実績を持つ。
(1997年東京開催の世界フィギュアでの佐野稔氏の銅メダルが、男女を含めての最初のメダル。)

日本人の父親とフィリピン人の母親を持ち、高校はアメリカ、大学は上智大学比較文化学部(当時)に進学、(後に専修大に編入)した、バイリンガルというよりも英語の方が、得意な選手だった。

当時の冬季五輪は、夏季五輪と同じ年に開催され、規模は今よりも遥かに小さく、冬季五輪が閉幕すると夏季五輪が話題になる、そんな時代だった。
札幌五輪のジャンプでメダルを独占した日本だったが、76年インスブルック五輪では、全競技を通じてメダルはおろか入賞者はゼロ(当時の入賞は6位まで)。
冬季五輪は、メダル候補がひとりいるかどうか、というのが日本選手団の常だった。

渡部絵美が気の毒だったのは、レークプラシッド五輪の前年、79年のウィーンで開催された世界選手権で銅メダルを獲得したこと。
一躍数少ないメダル候補としてマスコミの注目に晒されたことだ。


レークプラシッド五輪、女子は3回転ジャンプの幕開けともいえる大会だった。
当時まだあった規定演技でペッチ、フラチアニ、ルルツに次いで4位。
SPでは4位を確保はしたものの上位との左は大きく広がった。
フリー演技はNHKも生中継した。
レークプラシッド五輪では、北海道を除いて八木弘和が銀メダルを獲った70m級ジャンプも生中継はしていない。
それくらい日本中が注目していたということだ。

フリーで渡部は、トリプルサルコーを決め、でき得る最高の演技をした。
が、ペッチ、ルルツ、フラチアニの上位選手が後から演技をし、抜かれていく。
最終演技者はスイスの新鋭のデニス・ビールマン。
今もビールマンスピンに名前を残すビールマンが4位に滑り込み、渡部は6位に終わった。

その後日本のフィギュア界は、1988年に天才と呼ばれた伊藤みどりが女子で初めてのトリプルアクセルを成功させ、世界のトップに躍り出た。
1988年カルガリー五輪は5位に終わるも、1989年のパリで開催された世界選手権で優勝。
ヨーロッパの記者は「日本人選手がヨーロッパで開催された世界選手権で金メダルを獲ったことは非常に異議深い」と称えた。
伊藤は1992年アルベールビル五輪で、日系米国人クリスティ・ヤマグチに敗れはしたものの、銀メダルを獲得。
日本フィギュア界の悲願を達成するのである。

話は戻るが、渡部絵美が6位に入ったレークプラシッド五輪の女子フィギュアに申恵淑(シン•ヘスクという名前の22歳の韓国人の選手がいた。
結果は20位(参加22人)
劣悪だった韓国のフィギュアの環境を離れ、専修大学に留学し、渡部と同窓となっていたが、若くして選手は引退、1984年からフィギュアのコーチを務めている。

金妍児(キム・ヨナ)も小学校4年から3年間申恵淑に教えを請い、ブライアン・オーサーと決別してから、再び彼女に付いた。

Fs2014
▲日本女子の五輪での順位(10位以内) 1968年の大川久美子は現姓佐藤⇒佐藤久美子コーチ

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新・冬季五輪の記憶(1) 5冠王エリック・ハイデン

 1976 Innsbruck

1980 LakePlacid

  1984 Sarajevo

五輪は時として、とんでもない怪物を生む。
5回の五輪に出て23個の競泳の金メダルを獲ったマイケル・フェルプス
生涯9個の金メダルを獲ったカール・ルイス
円盤投げ4連覇のアルフレッド・オーター

冬季五輪はその種目の少なさからか、夏季大会ほどのスーパースターは出ていない。
が、冬季五輪史上最高のスーパースターの一人がエリック・ハイデンであろう。
1980年2月、ソ連のアフガニスタン侵攻に対するモスクワ五輪のボイコット問題に揺れる中、レークプラシッド五輪が開幕した。

男子のスピードスケートは500m、1000m、1500m、5000m、そして10000mの5種目が行われている。
近年の五輪では、屋内のスケートリンクが会場となっているが、以前の五輪では屋外のリンクが当然であり、スピードスケートもスキーと同様に「自然と戦う」競技だった。

名門ウィスコンシン大学の医学生だったハイデンは、1977年、78年、79年と5種目の総合得点で争われる世界スピードスケート選手権で3連覇を果たし、レークプラシッド五輪では、「全ての種目に金メダルを狙う」と5種目全てにエントリーしてきた。
当時は現在ほど、スプリント専門、長距離専門と分かれておらず、オールラウンドに強い選手も多かった。
だが、5種目全てに金メダルなんて、誰もがそう思った。
 
最初の500mは辛勝だった。
この時代の500mは、1回のレースで全てが決まる。
当時の世界記録保持者クリコフ(ソ連=当時)をわずか0秒32差で振り切った。
そして、翌日の5000mは中間タイムで5秒遅れたが、後半ピッチを上げ、逆転で金メダルを手にすると1000m、1500mと金メダルを積み重ねていった。
ハイデンは、常に異彩を放つ金色ワンピーススーツを着ていた。
金色のハイデンが、常に同走者を置き去りにした。


5種目制覇のかかった10000mは、余裕たっぷりだった。
前日は、アイスホッケーの決勝。
「ミラクルオンアイス」と呼ばれたアイスホッケーの米ソの金メダルをかけた対決の応援に駆けつけ、スケートの代表仲間と大騒ぎした。
そして、10000mのレースでは2位と8秒差、世界記録を6秒も更新するタイムで5つ目の金メダルを手にした。

「モスクワでの2週間のために選手は人生をかけてきた。カーター大統領は再考をすべきだ。」
5冠王に輝いた後、インタビューでモスクワ五輪ボイコット問題に触れ、ハイデンは力説した。

米ソの冷戦華やかりし頃、五輪が政治の道具にされた。
ソ連の存在すら、良く思わないカーター大統領(当時)は、ソ連軍のアフガニスタン侵攻を理由に、1980年7月に開幕の予定されていたモスクワ五輪のボイコットを西側の友好国に呼びかけていたのだ。
しかし、ハイデンの訴えに、米国や日本の決定が覆ることはなかった。

▼エリック・ハイデン 当時21歳 184cm86kg それほど大きい訳ではない。
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実は、最近までスピードスケートの全種目制覇は五輪史上ハイデンが唯一、と思っていたが、もう一人いた。
1964年のリディア・スコブリコーワ(ソ連)である。
この時代はの女子は5000mが未実施であったため、500m、1000m、1500m、3000mの4冠王ということになる。

スコブリコーワは、冬季五輪史上、女子のスピードスケートが最初に採用された1960年のスコーバレー五輪の1500mと3000mで金メダルを獲った。
このとき20歳。
元々は中長距離が得意だったようだ。

1964年のインスブルック五輪の前年、1963年に軽井沢で開催された世界選手権で500m、1000m、1500m、3000mの4種目制覇をやってのけると、インスブルックでの4冠の期待が膨らみ始めた。

五輪初日に苦手な500mで同僚のエゴロワに0.4秒差で圧勝すると、4冠達成はいとも簡単に成し遂げられた。
スコーバレー五輪での2個の金メダルと合わせ、冬季五輪6個の金メダルは今も女子選手としては、最多タイとして記録に残っている。

このインスブルック五輪3000mでHan Pil-Hwa(韓弼花)という選手が銀メダルを獲っている。
この選手は北朝鮮の選手で、五輪のスピードスケート史上アジアで最初にメダルを獲った選手でもある。

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