平成のスポーツの記憶

April 15, 2019

日本オリンピック選手団 平成初の金メダリストは誰だった?

平成の30年間に開催された五輪は夏冬合わせて15回。
述べ2908人(男子1541人、女子1365人)の日本選手団が参加し、金メダル68個、銀メダル77個、銅メダル101個の合計246個のメダルを獲得している。

では、日本選手団の平成最初の金メダリストと平成最後の金メダリストは誰でしょう。

平成元年は1989年。
平成最初の五輪イヤーは、1992年ということで、バルセロナ五輪の岩崎恭子。
という回答が上がりそうだが、1992年まで五輪は夏冬同じ年に開催されていた。
よって、アルベールビル冬季五輪のノルディック複合団体(三ヶ田礼一・荻原健司・河野孝典)が平成初の金メダリスト。
アルベールビルで日本チームが獲った金メダルはこのひとつであり、1972年の札幌五輪の笠谷氏以来、20年ぶりの冬季五輪金メダルだった。
平成最後は、昨年2018年の平昌冬季五輪、スピードスケートマススタート女子の高木菜那。

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その他主な記録は下記のようになる。
最多出場 葛西紀明 (ジャンプ)7回 1992~2018年
最年長出場 法華津寛(馬術)71才128日 2012年当時
最年少出場 稲田法子(14歳,2日) 1992年当時
最多メダル 内村航平 7(金3,銀4)、北島康介 7(金4,銀1,銅2)
最多金メダル 北島康介,伊調馨4
最年長メダリスト 渡辺和三 44歳 1992年クレー射撃トラップの銀メダリストだが、4年後の1996年8月2日に48歳で亡くなっている。
最年少メダリスト 岩崎恭子 14歳6日 1992年200m平泳ぎ金メダル

 

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March 04, 2019

平成のスポーツの記憶⑧ 荻原健司最後の金メダル 1997年世界ノルディック

ノルディックスキーの世界選手権は、日本勢がなかなか波に乗れないうちに終わってしまった。
今大会は、ジャンプの小林陵侑に世界のスキー関係者が注目していたが、獲得できたのは団体の銅メダルのみ。
シーズンを通じて優勝者を決めるW杯とは異なる、一発勝負の世界選手権。
雪、雨、温度といった自然の中で競い合うというスキー競技の醍醐味が味わえた大会だったのではないか。

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過去の世界ノルディックで日本チームが獲得したメダル

世界ノルディックは、2年に一度開催されているが、ほとんど欧州選手権に日本が招待されているかのような、参加国に偏りがある。
そんな中、長野五輪の前後は対等以上に欧州勢と渡り合ってきた。
1993年のファルン大会。
日本チームはノルディック複合個人の荻原健司、ノルディック複合団体(河野孝典・阿部雅司・荻原健司)、ジャンプNH原田雅彦と3つの金メダルを獲得している。

世界ノルディックというと荻原健司を思い出す。

ogiwara1990年代 W杯個人19勝、五輪団体2連覇などジャンプを含む日本のスキー界に残した記録は他を圧倒する。
この荻原が最後に表彰台の真ん中に立ったのが1997年の世界ノルディック選手権トロンハイム大会であった。

ジャンプで先行して、距離で逃げ切るという常勝パターンが崩れ、なかなかW杯でも勝てなくなってきていた荻原。
早大の先輩で、リレハンメル五輪複合個人銀メダルの河野孝典が引退。
長野五輪を1年後に控え、トロンハイムの世界選手権を迎えた。

この個人戦でメダルをとの思いは強かったが、海外メディアにとって荻原は既に下馬評に挙がることはなく、ビャルテエンゲン・ビーク(ノルウェー)、サンパ・ラユネン(フィンランド)の一騎打ちと見られていた。

複合のピークは20歳と言い切るラユネンはこのとき17歳。怖いもの知らずの勢いで、ジャンプで首位に立つ。
荻原はそれまで苦しんでいたことを振り払うようにジャンプをまとめ、2位で距離を迎えることになる。
15秒差でスタートした荻原健はワックスが合い、1キロ過ぎで首位のサンパ・ラユネンに並ぶ。
その後、4位から追い上げてきたビャルテエンゲン・ビークとのマッチレースになる。

3周目に入ったばかりの10キロ過ぎ、一度は抜かれたビークに先頭を譲られる形で首位に立つ。
勝負どころは残り2キロの上り。距離の猛者ビークを、一気に突き放し、そのままゴールした。
このとき荻原健司27歳、ビャルテエンゲン・ビーク25歳、3位入ったアルベールビル五輪金メダルのギーは28歳。
「20歳がピーク」といわれたベテランが意地を見せた。
 
その後2002年まで競技生活を続けた荻原だったが、優勝はこれが最後。
W杯の勝利も19を超えることはなかった。

翌年の長野五輪の複合個人は、ビークが優勝、荻原は4位。
地元での金メダルをさらわれたビークが、逆に荻原を抑える形になった。

●世界ノルディック選手権 トロンハイム(ノルウェー)複合個人1997年2月23日
(1)荻原健司(北野建設)(ジャンプ(2)232・0、距離(12)43分43秒1)
(2)ビーク(ノルウェー)タイム差30秒8((4)227・0、(13)43分43秒9)
(3)ギー(フランス)1分19秒4((10)217・0、(9)43分32秒5)
(34)荻原次晴(北野建設)
(40)大竹太志(専大)
(55)上野隆(東京美装)

●荻原健司の戦績
1992年アルベールビル五輪
個人7位、団体1位

1994年リレハンメル五輪
個人4位、団体1位

1998年長野五輪
個人4位、団体5位

2002年ソルトレークシティ五輪
個人11位、団体8位、スプリント33位

世界選手権
93年個人1位、団体1位
95年個人5位、団体1位
97年個人1位、団体9位
99年個人6位、スプリント3位、団体5位

W杯92~93 7勝
93~94 5勝
94~95 6勝
95~96 1勝

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February 24, 2019

平成のスポーツの記憶⑦ バスケW杯開催 さいたまスーパーアリーナ

2019年男子バスケットボールW杯(8月開幕、中国)のアジア地区2次予選、日本代表はカタールに勝利、W杯出場を決めた。
W杯に出場は地元開催だった2006年大会以来、予選突破としては1998年アテネ大会以来21年ぶりの快挙。

東京五輪の開催国枠獲得を確実とした。

今年のW杯に出場できるのは32か国。
この数はFIFA W杯と同じだ。

1998年日本がアジア予選を突破したアテネ大会の出場国はわずかに16。
アジアの2つしかない出場権を日本と中国を下した韓国が分け合った。

2006年 さいたまスーパーアリーナを中心に開催された日本大会(当時の呼び方はバスケットボール世界選手権)は、さいたまスーパーアリーナを主会場に16カ国出場で準備されていたが、FIBA(国際バスケット連盟)の主導で24か国に増加することとなり、さいたま市の単独開催から、グループラウンドを行うために札幌市、仙台市、浜松市、広島市の4都市が追加された。

元々の世界バスケットの予算規模は24億円。
入場料収入に14億円、自治体負担に7億円、スポンサー収入を1億円見込んでいたが、参加国数増が負担となり、13億円の赤字を出し、執行部の責任問題になった。

また、メディアの協力不足も大きかった。
地上波の独占放送権を持っていたのはTBSだったが、放送は日本戦の5試合と決勝のみ。
そのほとんどが深夜の録画放送だった。

8月19日(土) 15:00~16:54 日本70 -81ドイツ
8月20日(日) 15:00~16:54 日本62 -87アンゴラ

8月21日(月) 24:55~26:25 日本78 -62パナマ この大会唯一の勝利だった
8月23日(水) 24:55~26:25 日本57 -60ニュージーランド
8月24日(木) 24:55~26:25 日本55 -104スペイン
8月3日(日) 24:30~26:30 決勝 スペイン70-47ギリシャ

日曜日の昼間に放送された 日本対アンゴラの試合、視聴率は僅かに1.9%。
この2006年8月20日に日本では何が行われていたか、ご記憶の方はいるだろうか。

全国高校野球選手権決勝である。
カードは
田中将大擁する駒澤大学附属苫小牧高等学校と、斎藤佑樹を擁する早稲田実業。
1-1のまま延長15回を終了、翌日に再試合となったあの試合が行われた。

試合の模様はNHKとテレビ朝日系で中継され、関東地区の視聴率はNHK20.7%(午後1時~午後2時7分)と29.1%(午後2時9分~午後4時55分)。
テレビ朝日は4.6%。
駒大苫小牧の地元、札幌地区ではNHKが34.8%と43.2%、北海道テレビ放送が16.0%と高い視聴率となった。
NHKと北海道テレビ放送の視聴率を単純合計すると59.2%、これはサッカーのW杯なみ、昼間の視聴率としては脅威だ。

札幌市の北海道立総合体育センター (きたえーる)は、予選ラウンドD組の試合が行われていたが、会場にいた記者のほとんどは甲子園の映像を流すテレビの画面に見入っていた。
予選D組はアメリカや中国が入っていたが、海外から来たメディアから、「彼らは一体何を見ているのか?」「高校生の野球だ」「アメリカでは考えられない」といったやり取りがあった。

●世界バスケ2006最終結果 ①スペイン②ギリシャ③アメリカ合衆国④アルゼンチン⑤フランス⑥トルコ⑦リトアニア⑧ドイツ・・・20位日本

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February 13, 2019

ファイトだ 池江!19歳で白血病を発症、27歳で五輪競泳金メダリストになった男のはなし

マーテン・ファンデルバイデンは、2008年のオランダのスポーツマンオブザイヤーに選ばれた。
それは、2008年に開催された北京五輪のOWS(オープンウォータースイミング)で金メダルを獲得した最初の選手になっただけでなく、急性白血病に打ち勝ったひとりの人間であったからだ。

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▲表彰台の真ん中にいるのが白血病発症発症から8年目のマーテン・ファンデルバイデン

2mを超える長身。大男ぞろいのオランダでもなかなか2mの競泳選手ははいない。
この時期、世界の自由形の短距離の中心にいたピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドが193㎝。
3歳年下のファンデルバイデンの方が、10㎝近く高かった。

アテネ五輪の3年前、19歳の時にファンデルバイデンは複視と息切れを訴えた。
ただならぬ症状に病院に行くと急性白血病と診断された、2001年のことだ。

闘病は2年間に及んだ。その間に4回の化学療法と1回の幹細胞移植が施された。

発病する前、既に自由形の長距離と、OWSで名の知れた選手であったファンデルバイデンは、徐々にレースに復帰していく。
最初は筋肉の落ちた体の回復から始めたが、2005年にはいくつかの国際大会で勝てるようになり、2008年北京五輪のOWSオランダ代表に選ばれた。

先述のように、当時のオランダには男子にはピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド、女子にはインヘ・デブルーインという競泳界の大スターがいた。
闘病するファンデルバイデンにとって、母国のスターの2004年のアテネ五輪での活躍は大いに刺激になっていたのだろう。

特に30歳のピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドは、シドニー、アテネと100m自由形を制し、北京五輪での競泳同一種目3連覇が掛かっていた。
女子には下記の2人の選手が3連覇を達成していたが、男子にはいなかったのだ。
 1956-1964ドーン・フレーザー(豪洲) 競泳100m自由形
 1988-1996 クリスティーナ・エゲルセギ(ハンガリー) 競泳100m背泳ぎ

北京五輪では個人種目は100mの一種目に絞っていたピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド。
8月14日の100m自由形決勝、47.75秒のピーターは5位に終わり、3連覇の夢は絶たれた。
が、この47.75秒の記録は、彼のシドニー、アテネ両五輪の同種目の金メダルタイムを超える快記録でもあった。

OWSは競泳の最終日に行われる。
この日まで、オランダ水泳チームは、女子の4継リレーで金メダルを獲ってはいたが、男子はゼロ。
ファンデルバイデンに金メダルの期待が大きくのしかかっていた。
8月21日 北京郊外の順義オリンピック水上公園、カヌーやボートの競技会場だった施設だがこの日はOWSが行われる。
選手としての引退を決めていたピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドはオランダのテレビ局にゲストとして呼ばれていた。

OWSはいわば、外海を10㎞泳いで勝者を決める過酷な競技。
強靭な肉体とタフな精神が求められる。
出場したのは選りすぐりの25名。
どうぞ下記の動画をご覧ください。

金メダルはマーテン・ファンデルバイデン。
オランダの競泳ファンは、彼の勝利だけでなく、レースの終盤、コメンテーターから一人のファンになったピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドのことも今も忘れていない。


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February 08, 2019

平成のスポーツの記憶⑤ 北島康介20歳 初めての世界新

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北島康介はその競泳人生において、4個の五輪金メダルを獲り、5回の世界新記録を出した。
世界記録は100m平泳ぎが3回、200m平泳ぎが2回。
その初めての世界記録が2002年釜山アジア大会の200m平泳ぎ決勝だ。

1982年9月22日生まれだからこのとき20歳。
日本人による競泳の世界記録は、1972年のミュンヘン五輪で金メダルを獲った男子100m平泳ぎの田口信教氏、100mバタフライの青木まゆみ氏以来30年振りだった。

2002年当時の世界記録は、米国のマイク・バローマンが、バルセロナ五輪の決勝でマークした2分10秒16。
ちょうど10年間更新されず、最も古い世界記録だった。

●男子200m平泳ぎ決勝
①北島康介 (日体大) 2.09.97 世界新
②木村太輔 (近大)  2.13.60
③ラタポ  (タイ)  2.15.81

この年6月の日本選手権では、世界歴代3位の2分10秒64を出し、世界記録を視界に入れた。が、8月末に開催されたパンパシフィック選手権を右ひじ痛のため棄権。
挫折を経て成し遂げた世界記録だった。

この大会で北島は100 m平泳ぎ、200 m平泳ぎ、4×100mメドレーリレーの3つの金メダルを獲得。大会MVPに選ばれている。

ハンガリーのギュルタは、ロンドン五輪の200mを世界新記録で制したが、実はその8年前、アテネ五輪の同種目に、北島康介が金メダルを取ったレースでは若干15歳にして銀メダルを獲っている。
これは男子の競泳での最年少のメダリストだ。
ロンドン五輪では、ノルウェーのダーレ・オーエンが金メダルに最も近いと思われていたが、五輪の数カ月前に急死した。
ギュルタはオーエンの両親に金メダルのレプリカを贈っている。
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▲釜山アジア大会の競泳の会場

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February 05, 2019

平成のスポーツの記憶④ 誰も知らないロン・カーノウのはなし

平成1992

1992年バルセロナ五輪
27年も前の五輪である。
この大会の開会式は、随分と芸術にあふれた印象に残る開会式だった。

Wikipediaにはこうある。
文化的特徴に富み、美術、芸術面で著名な人物を輩出し続けるスペインらしく、開会式、閉会式ともに音楽監督でカタルーニャ生まれで世界的に人気の高いテノール歌手のホセ・カレーラスや、モンセラート・カバリェをはじめとする多くのスペイン人歌手の他にも多くのアーティストが参画し、近年でもまれに見る芸術性の高い開会式、閉会式であると絶賛された。

音楽監督は、「三大テノール」の1人であるホセ・カレーラスがを務めた。
当初は、クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーが、カタルーニャ出身の女性歌手モンセラート・カバリェと「バルセロナ」をデュエットする予定だったが、前年の1991年HIV感染により死去、開会式では生前の歌声だけが響いた。

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また、坂本龍一は地中海の神話をモチーフに作曲したマスゲームの音楽「El Mar Mediterrani」を作曲、指揮をした。

この真夏の世の夢とでもいうべき祭典の途中、予想しなかった事故が起きた。

アメリカのロン・カーノウは競泳200m個人メドレーの優勝候補だった。
自由形、背泳、平泳ぎ、バタフライの4種類の泳法に挑んでいるときこそ、彼の人生で最も充実した時間だった。
カーノウの父親のピーターは、息子の活躍を見るために大西洋を渡ってバルセロナに来ていた。
もちろん、お祭り好きなアメリカ人だから開会式に間に合うようにスペインに着いた。
開会式でスタジアムを歩く息子の写真を撮るために、スタジアムの階段を登ったときに、61歳のピーターの心臓は致命的な発作を受け、そして停まってしまった。

こんな悲劇にもかかわらず、カーノウは4日後の200m個人メドレーを棄権することはなかった。予選を全体の2位で突破、しかし決勝に進出するも6位に終わった。
優勝したのはハンガリーのタマス・ダルニュイ。
1988年ソウル・92年バルセロナ両五輪の200m・400mの個人メドレーをともに制した競泳史に残る大スイマーだ。

『なぜオリンピック中だったんだ、なぜ開会式の最中だったんだ』
ロン・カーノウは、偶然訪れた父の最期が、なぜ開会式の最中だったのか、自らに問いただしてみたが答えは得られなかった。

『父親が開会式で倒れ亡くならなかったら、俺はダルニュイに勝てたのか?』答えは出るはずがない。

薬剤師をしていたカーノウは、ニューヨーク・ヤンキースのジョージ・スタインブレナーオーナーからの奨学金を受け、ニュージャージー医科歯科大学に入学、そして1997年に卒業した。

ところが、彼はやり残したことがあると言い出し、整形外科の卒後研修を延期した。
そう、再び五輪の舞台に立とうとしていたのだ。
博士号を持った31歳が、今更プールに立つ?彼の周囲は、彼の決定を愚かだと言った。
1998年 オーストラリアのパースで行われた世界水泳選手権、イアン・ソープの15歳での世界デビューとなる大会にカーノウは出場した。

200m個人メドレーでは3位になった。が、カーノウが目指していた2000年のシドニー五輪は、全米代表選考会で敗れ、再びオーストラリアの地を踏むことは出来なかった。

この後、カーノウがどんな人生を歩んでいったかは、筆者もよくは知らない。が、水泳をやめることはなく、マスターズの大会などに出場し、そして医師としても活躍していると聞いている。

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January 28, 2019

平成のスポーツの記憶③ 東京世界陸上 谷口浩美マラソンを制す

平成1991

1991年9月1日 防災の日と重なったこの日、第3回世界陸上競技選手権大会東京大会 男子マラソンがスタートしたのは午前6時。
それでも気温は26度。しかも湿度が73%という悪条件だった。
日本陸連科学部が「東京での開催は選手の生命にかかわりかねない」として、この種目だけ北海道での分離開催が提案されたこともあった。
懸念された通り、厳しい残暑との戦いとなった。

体力の消耗を避けるためか、どの選手もスピードを上げない。いや上げられないのか、ゆっくりしたペースで進んでいく。25キロを過ぎて強豪のメコネン(エチオピア)が棄権。
続いて31キロ付近で、日本のエース中山竹通がレースを止めた。

先頭グループから次々と脱落者が出る中、「暑さは気にならない」という谷口浩美は「我慢」と自分に言い聞かせていた。
早朝にもかかわらず、沿道には約5万3000人(警視庁調べ)が応援に駆けつけた。
日本人のマラソン好きは、東京五輪時も、世界陸上時も、そして今も変わらない。
声援が谷口を押す。
38キロの市ケ谷駅前の上り坂を、口をあけ、首を振りふり、必死の形相でスピードアップ。
4人の先頭集団から、谷口が抜け出した。
四ツ谷の交差点で右折した時、谷口が後ろを振り返ると、もう後続は小さくなっていた。

いつものように首を傾け、口を開いてゆがめた苦しみの形相が笑顔に変わる。
ゴール手前100メートル。悲鳴にも似た歓声がスタンドを包む中、谷口は両手を広げてガッツポーズ。
酷暑のレースに耐え抜いて日本選手として大会初の金メダルをつかんだ瞬間だった。

マラソン金メダルは、1936年ベルリン五輪で日本統治下の朝鮮出身の孫基禎氏が獲ったことはあるが、日本人としては女子を通しても五輪、世界陸上を通じて初の快挙だった。

当時、谷口はマラソン14戦で7勝目。その最高のタイトルは自己最低の2時間14分57秒という記録だった。

 ◆1991年 東京世界陸上 男子マラソン成績

 (1) 谷口浩美(日本)2時間14分57秒
 (2) サラ(ジブチ) 2時間15分26秒
 (3) スペンス(米) 2時間15分36秒

谷口は世界選手権金メダルでバルセロナ五輪代表に内定される。
しかし、バルセロナでは途中シューズを踏まれ転倒。それでも後半追い上げ8位入賞を果たした。
そのとき、誰に恨みをいうでもなく「こけちゃいました」
と笑顔で答えた谷口。彼の人柄を示すエピソードだった。
なおバルセロナ五輪では男子は森下公一が、女子では有森裕子が銀メダルを獲った。

マラソン選手にとって最も過酷だったのはどの五輪あるいは世界陸上だろうか。
マラソンはロード競技であり、トラック競技とは性格を少々異にしている。道路や環境の状況によって条件が違いすぎるためだ。
そのため、かつては競歩とともに世界新記録という言い方をせずに「世界最高記録」と言われた。

1983年に始まった世界陸上選手権の優勝タイムを合わせて比較してみると、優勝タイムの最も悪かったのは1968年メキシコ五輪の2時間20分台。
メキシコシティは海抜2240メートルの高地であり、空気抵抗が少ないため、陸上の短距離や跳躍で高記録が続出した。
一方、空気が薄いため長距離は苦しかったようだ。
エチオピアのマモーに続いて君原健二さんが2位に入ったが、タイムは2時間23分台。
マモーから3分以上離されていたことになる。
君原さんの走り方は首を振り、いかにも苦しそうに走るのだが、このときは一層苦しそうに見えた。

ついで注目は2つの東京のタイム。
1964年10月10日に開幕した東京五輪のマラソンは、すばらしい条件下で、アベベ・ビキラがローマ大会に続いて史上初の連覇を達成。世界記録のおまけもついた。
一方、1991年の東京世界陸上。
高地のメキシコを除いて、ここ40年間の五輪、世界陸上で最もタイムが悪い。
夏のマラソンとしては陸上史に残る過酷なレースである。

●世界陸上東京大会男子マラソン 1991年9月1日
スタート:午前6時
エントリー:60選手
完走:36選手、完走率60%
優勝:谷口浩美 記録:2:14:57
真夏のマラソンは過酷。
2020年の東京五輪は1991年よりもさらに暑い。
スタートは何時?完走できるのは何人?

日本で行われた灼熱のマラソンといえばもうひとつある。

●世界陸上大阪大会男子マラソン 2007年8月25日
スタート:午前7時
出場:87選手
完走:57選手、完走率66%
優勝:ルーク・キベト 2:15:59

 

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January 25, 2019

平成のスポーツの記憶② 代々木オリンピックプール最後の世界記録

平成1989

1964年の東京五輪のために建設され、2020年の東京五輪でも競技会場となる施設がいくつかある。
代々木競技場、日本武道館、東京体育館などがそうだ。

代々木競技場は、国立代々木競技場が正式な名称で、第一体育館と第二体育館からなる。
第一体育館は代々木体育館あるいは、代々木第一と呼ばれることが多い。が、かつてはオリンピックプールと呼ばれていた。
というのも1964年の東京五輪時は、水泳競技(競泳・飛込み)の会場だったのだ。

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当時から、プールだけでなく体育館しても使えるように設計されており、五輪後は、水泳と並んでフィギュアスケート、アイスホッケー、バレーボール、室内陸上、ボクシング等様々な競技が行われてきた。
また、コンサートの殿堂としても知られている。
最初に代々木を使ったアーチストは、1983年のチャゲ&飛鳥、外国人では1985年のブルース・スプリングスティーンだ。

平成元年 1989年8月21日、代々木のオリンピックプールで行われていた競泳のパンパシフィック選手権最終日、女子800m自由形でジャネット・エバンスが、自己記録を0秒90短縮する8分16分22の世界新記録を出した。
この前年のソウル五輪で3冠を達成したエバンスもこのときはまだ18歳、この記録がその後18年も生き残るとは思わなかっただろう。

バルセロナ五輪でこの種目に連覇したエバンスのタイムは8分25秒52。
そして、25歳で迎えたアトランタでは6位(8分38秒91)に終わった。

この種目、2004年のアテネ五輪では、柴田亜衣が金メダルを穫っているが、そのタイムは8分24秒54、エバンスの記録が、競泳の永遠に残る世界記録になりかけていた。

ところが、北京五輪で、イギリスのレベッカ・アドリントンが、8分14秒10で優勝、19年目の世界新記録となった。
ベッカ・アドリントンは、続く400mでも4分3秒22で優勝しており2冠となった。
女子競泳で、イギリス勢が金メダルを獲得するのは、1960年のローマ大会以来の快挙であり、4年後のロンドン五輪開催に向けての強化が実り始めていた。

このように代々木のオリンピックプールは、18年間もだれも超えられなかった世界記録を生んだプールだったのだ。
今でこそ、辰巳、習志野、横浜と国際規格のプールが首都圏に3つもあり、有明には五輪仕様のプールが建設されている。が、1989年当時は代々木にしかなかった。

ところが、水泳の競技施設としての代々木体育館は徐々に老朽化し、1997年頃にその役割を終えた。
それ以降オリンピックプールと呼ばれることはない。

体育館の設計は丹下健三の手によるもので、丹下の代表的作品とされる。
第一体育館・第二体育館とも、吊り橋と同様の吊り構造の技術を用いており、第一体育館は2本、第二体育館は1本の主柱から、屋根全体が吊り下げられている。
その形状の美しさは、1964年当時五輪のために来日した関係者にも強烈な印象を残したと言う。

現在、代々木第一体育館は、2020年の東京五輪のハンドボール会場として迎えるべく改装工事をしている。

●競泳女子800m世界歴代ランキング 1989年のエバンスの記録が堂々6位にランクされている。
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January 22, 2019

平成のスポーツの記憶① サウジアラビアに勝って貴乃花に負けたサッカー日本代表

平成1992

サッカーのアジア杯は21日、アラブ首長国連邦(UAE)のシャルジャなどで決勝トーナメント1回戦を行い、2大会ぶりの優勝を目指す日本はサウジアラビアを1─0で下し、準々決勝進出を決めた。 

アジア杯を4回制した日本に対し、3回の優勝経験のあるサウジアラビア。
決勝トーナメントで両者が当たるのはもったいない、そう思った人も多いだろう。
日本代表が、アジア杯に初めて優勝したのは1992年11月広島で開催された26年前のこと、相手はサウジアラビアだった。

舞台は広島ビッグアーチ、2年後(1994年)に開催予定の広島アジア大会のメインスタジアムとして新規に作られ、収容人数は50000人。
2002年のW杯のために日本各地に大競技場が揃ったが、この当時サッカーのできる大競技場は旧国立競技場(56000人収容=当時)、神戸ユニバ競技場(45000人)と広島ビッグアーチしかなかった。

当時、日本代表のアジア杯での最高成績は1988年の1次グループ敗退、アジア大会でも4強止まり。
アジアで大きな結果は残せていなかった。
が、この翌年1993年にJリーグの開幕を控え、1992年には最初のナビスコ杯が開かれるなど、Jリーグブームの兆しの中での大会だった。
監督は初の外国人監督であるハンス・オフト。

準決勝の中国戦を途中出場の中山雅史のゴールで3-2と競い勝ち、決勝では3連覇をめざしたサウジアラビアと対戦した。
立ち上がりから速いパス回しでサウジアラビア陣内に攻め込む日本代表。
前半36分、左サイドの三浦知良から出たボールを、ゴール前の高木卓也が胸で受けて落とし、そのまま左足でゴール。
1-0 サウジアラビアの3連覇を阻止し、初めてアジアを制した瞬間だった。

ところが、この試合の翌日 1992年11月9日(月)の全スポーツ紙の一面には何が来たであろうか?

貴乃花(当時貴花田)である。

貴花田は、1992年9月場所に2回目の優勝を果たし、11月場所は大関昇進が懸かっていた。
ところが、股関節故障を抱え初日から4連敗、その後持ち直して10勝5敗でこの場所を終えた。

貴花田の大関取りが持ち越された、というだけの11月8日のNHKの相撲中継の視聴率はなんと43.4%。
アジア杯 日本対サウジアラビアの試合は大相撲の裏 NHK衛星第一で中継され、視聴率は残っていない。

●日本代表先発メンバー
前川 (広島)←松永出場停止のため
堀池 (清水)
柱谷 (川崎)
都並 (川崎)
井原 (横浜M)
福田 (浦和)
ラモス(川崎)
北沢 (川崎)
吉田 (ヤマハ)←中山ともどもJFLのヤマハから選出されていた
(勝矢 横浜M)
三浦 (川崎)←まだ現役
高木 (広島)

●1992年の視聴率トップ10
順位 番組名(放送日)視聴率
1.紅白歌合戦(12月31日) 57.9%
2.おんなは度胸(10月3日) 48.8%
3.大相撲九州場所(11月8日) 43.4%←この日にアジア杯決勝が行われた
4.ひらり(10月6日)    42.5%
5.大相撲初場所(1月26日) 39.5%
6.君の名は(2月13日)   37.7%
7.プロ野球日本シリーズヤクルト×西武第6戦(10月25日) 36.7% 
8.ずっとあなたが好きだった(9月25日) 36.0% 
9.大相撲秋場所(9月25日) 35.8%
9.スターものまね王座決定戦(12月1日) 35.8% 

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