柔道・レスリング・ボクシング

October 23, 2017

村田諒太 日本人初 五輪金メダリストからプロ世界王者

世界ボクシング協会(WBA)ミドル級では2012年ロンドン五輪金メダルの村田諒太(帝拳)が王者アッサン・エンダム(フランス)に7回終了TKO勝ちし、新王者となった。日本選手初の五輪メダリストのプロ世界王者と、2人目のミドル級王座獲得を果たした。

五輪のボクシング(男子)は1904年セントルイス五輪から実施されている。
現在はライトフライ級からスーパーヘビー級までの10階級に分かれているほか、19歳から40歳までという年齢制限も存在する。

1928年以来77人の日本人選手が五輪に参加しているが、メダルを獲ったのは5人。
ローマ五輪でフライ級の田辺清氏が銅メダル、東京五輪の桜井孝雄さん(故人)がバンタム級で金メダル、さらにメキシコ五輪の森岡栄治さん(故人 バンタム級)銅メダルの3選手以降随分間があったが、前回のロンドン五輪でミドル級 村田諒太が金メダル、バンタム級の清水聡が銅メダルを獲った。

村田はロンドン後プロ入りし、清水はアマでリオ五輪を目指していたが、参加の道を断たれこの2016年にプロ入りした。

五輪に出場したボクサーが、プロ転向後世界王者になった選手は村田で4人目、金メダリストでは初の世界王者だ。

●五輪に出場後プロ入りした主なボクサー Screenshot_20171023133031

 

 

 

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June 06, 2016

モハメド・アリとその時代に見る、人種差別とオリンピック

オリンピックの開会式は、スポーツを通じて平和などの理想を訴える唯一の場所であり、大会ごとに聞催国からは全世界に向けたメっセージが発信されている。
例えば1964年の東京大会では、原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれた坂井義則さんが最終聖火ランナーを務め、「戦禍から立ち上がり、平和日本を象徴する若い力」を世界に披露した。
2000年のシドニー大会では、オーストラリアの先住民アボリジニの現役女子陸上選手、キャシー・フリーマンが聖火台に点火している。
そして、1996年7月のアトランタ大会では、最終聖火ランナーとしてボクシングの元世界ヘビー級王者モハメド・アリがパーキンソン氏病を患い震える手を押さえながら聖火台に点火をし、世界中の感動を誘った。
アリが選ばれたのは、病気を克服しようとする姿をアピールするためだけではない。アメリカ南部のアトランタで開催されたオリンピックにおいて、人種差別を振り返り、人類の平等や平和を願うという大きな意昧を、アリを通して訴えたのである。

モハメド・アリという名は、生まれながらの名前ではない。元々の名前はカシアス・クレイ。
1960年ローマオリンピックで金メダルを獲得した時の名前でもある。
18歳のクレイがオリンピックで金メダルという快挙を成し遂げて故郷・アメリカに婦国した際、待ち構えていたのは賞賛や尊敬ではなく差別だった。
友人とレストランに入り、店員に金メダルを見せて名乗っても、
「ここは白人専用、黒人の来るところではない」
と追い出される。
帰り道、アリは通りかかったオハイオ川に金メダルを投げ捨てた。
その後プロ人りして世界王者を目指す。
一方、黒人指導者マルコム・エックスが率いる急進的な黒人組織ネーション・オブ・イスラムの一員になり、白人が付けた奴隷の名前=カシアス・クレイを捨て、モハメド・アリ「高貴な神」になると宣言をした。

アリが、カシアス・クレイとして金メダルを獲得してから8年後の1968年・メキシコオリンピックの陸上競技では、当時のアメリカ社会を象徴する出来事が起きた。
ボブ・ビーモンが走り幅跳びで8メートル90の驚異的な世界記録を出すなど、アメリカの黒人選手による「ブラック・パワー」が吹き荒れたこの大会の、男子200メートルの表彰式でそれは起こった。

19秒83の世界記録で優勝したトミー・スミスと、3位のジョン・カルロスが、メインポールに揚がる星条旗を無視、黒い手袋をはめたこぶしを突き上げたのである。
この年は黒人解放運動の指導者、キング牧師が暗殺され、アメリカにおける黒人差別への不満と不安がオリンピックの場で爆発したのだった。
同時期のアリは、露骨な黒人差別を温存するアメリカ杜会に批刊的な占動を繰り返し、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、チャンピオンペルトを剥奪される。
徴兵拒否で懲役5年、罰金1万ドルの刑を受けたが、1970年に最高裁で無罪となった。

1971年にリングヘ復婦するが、ジョー・フレーザーとの対戦で初めての敗北を経験する。が、1974年、アリのルーツであるアフリカ、ザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサで、ジョージ・フォアマンと歴史的対戦を行い、奇跡の王座奪還を果たした。
このとき32歳。
ところがパーキンソン病を発病、1981年、61戦56勝5敗37KOという記録を残し、引退した。

ボクシングからは引退したアリだったが、それ以外の行動を止めることはなかった。
人種差別に挑む一方、1990年の湾岸戦争では、サダムフセインを訪問。
10人のアメリカ軍の捕虜をアメリカに送還することに成功した。
さらに1998年にはキューバを訪問し、アメリカ政府に対して経済封鎖の緩和を訴える声明を発表した。
9・11同時多発テロの時には、救援コンサートでイスラム教徒を代表して平和を呼びかけた。
そして1996年のアトランタオリンピックで、最終聖火ランナーを努めたアリは、IOCからローマオリンピックの金メダルのレプリカを渡された。
黒人差別に憤り、川ヘ投げ捨てた金メダルが再び彼の手に戻ったのだ。

●アリ、フレーザーそしてフォアマンの金メダル
1960年 ローマ大会ライトヘビー級
 金メダル カシアス・クレイ(アメリカ)
      のちのモハメド・アリ
1964年 東京大会ヘビー級
 金メダル ジョー・フレーザー(アメリカ)
1968年 メキシコ大会ヘビー級
 金メダル ジョージ・フォアマン(アメリカ)

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January 05, 2015

東京五輪検定② (○×クイズ)アントン・ヘーシンクに敗れた神永昭夫は 同じ日に2回ヘーシンクに敗れている。

正解:○

東京五輪の柔道無差別級に参加した選手を調べてみるとなんと9人しかいない。
体重のある選手が、重量級と無差別級に分散されるとはいえ9人とは随分と少なかった。

予選で9人を3つの組に分け、各組2勝した3人が準決勝に進出。
各組1勝した3人で敗者復活戦を行い、4人目の準決勝進出者を決めるという試合形式が採られた。神永昭夫は抽選でヘーシンクと同じ組になり、この日最初の対戦は判定で敗れた。
その後敗者復活戦、準決勝を勝ち上がり、決勝で再びヘーシンク挑むも9分22秒(当時、試合時間は10分だった)袈裟固めで一本負けをし、銀メダルに終わった。

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余談ながら神永は、この試合の翌日、定時に勤務先の富士製鉄(現新日鉄住金)に現れ、普通に勤務をしたという。
1992年のバルセロナ五輪では、日本代表総監督として吉田秀彦や古賀稔彦を金メダルを見届けたが、翌1993年に直腸癌のため死去、56歳の若さだった。

 

 

 

 

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October 04, 2014

実力か不正か? 1986年ソウルアジア大会のボクシングは12階級全てに韓国が金メダルを獲った

10月3日、仁川アジア大会ボクシングの男子ライトフライ級で韓国の申種勲が、バンタム級では咸相明が金メダルを獲得した。
ボクシングで韓国選手が金メダルを獲得したのは2002年の釜山大会以来12年ぶりとなる。

申種勲は、顔中にアザができる程パンチを食らい、相手のフィリピン選手の勝利か誰もが思われていたが、判定の結果は申種勲の勝利となった。
つい先日はインド対韓国の女子ボクシング試合の判定に不服だとしてインドの女子選手が銅メダル受け取り拒否をしたばかりだ。

この試合に対してフィリピン・ボクシング協会のリッキー・ヴァルガス会長は「韓国相手に勝つことは不可能だ」とコメントした。

韓国開催の大会の試合の判定での不明瞭さを、今回初めて目にする方もあるかもしれない。
が、この程度のことは毎回起こっている。
その始まりは1986年ソウルのアジア大会のボクシングだった。
韓国は全12階級全てで金メダルを獲った。
ナショナルチームが参加するボクシングの競技会で、一つの国が全階級制覇するなど常識的にあり得ない。

当時ももちろん、審判の買収が取り沙汰されていたが、今と違いネットなるものはない時代。一般の人が、映像を確認することまどできない。
新聞もソウル五輪を2年後に控えた韓国に遠慮がちな扱いをした。
メディアの沈黙が、こうした傾向を現在まで続かせている要因となっている。

下記の金メダリストの内、ひとりだけプロ転向後に世界王者になった選手がいる。バンタム級の文成吉だ。
WBA世界バンタム級およびWBC世界ジュニアバンタム級の2階級制覇を達成している。

1986

*1973年にスイスのローザンヌで開催された世界柔道選手権大会において、日本は全階級を制覇したことがある。が、この当時の世界柔道は、無差別級を含む6階級に各国2人の選手が出場できるシステムだった。

 

 

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August 08, 2012

メダルをめざすボクシング

五輪のボクシング(男子)は1904年セントルイスオリンピックから実施されている。
現在はライトフライ級からスーパーヘビー級までの10階級に分かれているほか、17歳から34歳までという年齢制限も存在する。

2分間のラウンドを4ラウンドまで戦う形式で、ヘッドガードを着用するなど、厳格なルールが適用されており、有効打によるポイントで勝敗が決する。

今年はアマチュアボクシング界にとって、稀に見るいい年のようだ。
7月16日に世界ボクシング評議会(WBC)王座に就いた五十嵐俊幸は、8年前はアテネ五輪のリンクに立っていた。

アテネ五輪の際、出場権をかけた最終予選で日本はすべての階級で出場枠の与えられる決勝戦に進むことができず、1928年アムステルダム大会から続いていた出場記録は途絶えかけた。
ところが、ライトフライ級の代表となったパキスタンの選手が故障のため五輪出場を辞退。
急遽代替出場したのが五十嵐俊幸だった。
アテネ五輪に出場した日本人ボクサーは五十嵐ひとり。
その五十嵐も初戦で敗退した。

北京五輪にはライトウエルター級に川内将嗣が日本人として唯一出場したが、2回戦で敗退、川内は今年のロンドン五輪もめざしたが適わなかった。

ロンドン五輪に出場した日本人選手は4名。

フライ級 須佐勝明
バンタム級 清水聡
ウエルター級 鈴木康弘
ミドル級 村田諒太

4選手の出場は、1996年のアトランタ五輪以降では、最も多い。
その中で清水聡、村田諒太の2選手が準決勝に進出。
ボクシングには3位決定戦がないため、既にメダルを決めている。

五輪でメダルを獲った日本人選手は、ローマ五輪でフライ級の田辺清氏が銅メダル、東京五輪の桜井孝雄さん(故人)がバンタム級で金メダル、さらにメキシコ五輪の森岡栄治さん(故人 バンタム級)銅メダルの3選手しかいなかったというのに、44年ぶりにしかも2選手のメダリストが決まった。

2選手の今後の日程は下記のようになる。

8月10日
22:00 男子バンタム56kg級 準決勝 清水 聡
23:00 男子ミドル75kg級 準決勝 村田 諒太

8月11日 2選手が決勝に進出したらのこ日程
4:45 男子バンタム56kg級 決勝
5:45 男子ミドル75kg級 決勝

 
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August 14, 2008

青い柔道着はヘーシンクの提案だった

北京五輪の柔道も6日目になった。
近年の五輪や世界選手権で用いられている青い柔道着にも、すっかり慣れた。
それでも全日本選手権をはじめ、日本国内の試合においては、昔ながらの白い柔道着以外は認められていない。
カラー柔道着が正式に導入されたのは1997年だが、カラー柔道着導入には理由がある。
ひとつはテレビに対応するためだ。

1990年代は五輪種目数が肥大化していた時代で、各競技関係者は、いつ自分たちの競技が正式種目から外されるか戦々恐々としていた。
柔道も例に漏れず、生き残りにかけて策を練っていた。その1つがカラー柔道着の導入である。
選手が組み合って戦う柔道の場合、柔道着の色が異なれば選手の判別がつきやすい。寝技になっている時などは特に効果的である。
実際、テレビ観戦者の間では「判りやすい」と好評だ。世界中の人がテレビ観戦するオリンピックにおいて、この点を活かさない手はない。競技関係者はテレビ放映をからめ、カラー柔道着の導入をアピールした。

もうひとつは、日本発祥の柔道とワールドスポーツJUDOとが、別の競技になりつつあること。
もともと日本では柔道には体重分けは無かったが、正式種目になった東京五輪で、軽、中、重量級と無差別の4階級になり、現在は7階級で行われている。
また、元々は技の判定も「一本」と「技あり」だけだったのが、その後「有効」と「効果」が加えられ。
ポイント制に移行した。(北京後「効果」は廃止)。

こうして柔道がJUDOに変わっていき、ヨーロッパ勢が伝統武術であった柔道に、スポーツとしての体裁を整えていった過程の中でカラー柔道着が、導入されたのだ。
最初にカラー柔道着を提案したのは、アントン・ヘーシンク氏。東京五輪の無差別級金メダリストである。 
日本人の精神主義を知り尽くしたヘーシンクは、赤や黄、紫などでは、日本側に一蹴されると読んでいた上で、青を主張したという。
カラー柔道着の青は、青というよりも少し深い、紺に近い青だが、この色はヨーロッパでは神聖な色とされている。
日本側が、最も妥協しやすい色だ。

既にカラー柔道着が導入されて3回目の五輪だが、特に違和感はない。また、白に戻せという意見もない。
なお、試合をする2人の選手のどちらが青を着るかは、トーナメント表で、先に名前の書いてある選手が青と決められている。だから選手は必ず2種類の柔道着を用意することになる。

 

08.8.14
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