北京五輪への道

May 07, 2010

年齢詐称は朝飯前?

今年のGWは開幕したばかりの上海万博が話題になった。
上海万博PRソングが岡本真夜の「そのままの君でいて」という歌にそっくりで、盗作ではないかと騒ぎが起きた。
岡本の所属事務所には、万博事務局から楽曲使用申請があったそうだが、この歌は開会式では歌われなかったという。

万博には直接関係ないのだが、2000年のシドニー五輪体操団体で、銅メダルを獲っていた中国女子チームのひとり、董芳霄が年齢を2歳詐称していたため、IOCからメダル剥奪を言われていた問題で、中国五輪委員会と中国体操協会は、「IOCの勧告を尊重し、1週間以内にシドニー五輪で獲得した銅メダルを返還する」と発表した。
これが万博開幕2日前の4月29日のことだ。
世界が注目する大イベントの開幕前に、中国のイメージを落とす話題の火消しに躍起になったというところだろう。

董方霄はFIG(国際体操連盟)及びIOCに対し、1983年1月20日生まれの17歳と登録して同五輪に出場したが、当時実は14歳で、FIGの定める五輪出場最小年齢の16歳に達していなかった。
実の年齢がばれたのは、2008年北京五輪の中国体操チームのチーム付役員として董方霄が参加した際だ。
1986年1月23日生まれと、シドニー五輪時とは、異なる生年月日を登録していたのだ。

これに伴ってFIGの理事会は既に、シドニー五輪や1999年世界選手権時の記録などについて、抹消することを決定した。
そして、シドニーの団体銅メダルは、4位の米国が繰り上がることになった。
シドニーの際には、他にも段違い平行棒で銅メダルを獲得した楊雲という選手も調査対象となっていたが、証拠不十分として警告処分に留まっている。

シドニー五輪の女子体操は、日本が団体出場権を獲れず、竹中美穂と山脇佳奈の2名が個人総合に出場しただけで、メディアにもあまり取り上げられなかった。
そのため印象がどうしても薄い。

当の董方霄は、2001年の第九回全国運動会の河北省チームの一員として団体と床運動に優勝したのち、表舞台から消えた。
大怪我をしたと言われていた。
車椅子の生活からリハビリを経てコーチとして参加した北京五輪では、「7年掛けて再び五輪の舞台に帰ってた」と美談として中国メディアには取り上げられていたともいう。

大怪我?
本当だろうか。
前々回に書いた佟文のときと同様に、当局にとって都合の悪い董方霄を消したのではないか?
そして凄いことに年齢詐称がはっきりすると、董方霄が個人的に企てたことであって、中国体操協会や国家は関係ないと言い張っている。


ついでに記すと、金メダルを獲った2008年北京五輪の中国女子団体メンバー6人の内、3人が年齢詐称ではないかと騒がれた。
2つの生年月日を持つ選手がいるのだ。 
前者は北京五輪での生年月日、後者はそれ以前に公表されていた生年月日だ。
これについて北京五輪時にFIGは、とりあえず「お咎めなし」としたが、自国で五輪開催中の中国の面子を立てるよう圧力がかかっていたとしたらどうだろうか。
また10年位して金メダル剥奪となるかもしれない。


●北京五輪中国女子体操団体金メダルメンバー
程菲 1988年5月29日生まれ
鄧琳琳 1992年4月21日生まれ
何可欣 1992年1月1日生まれ 1994年1月1日生まれ?
江鈺源 1991年11月1日生まれ 1993年10月1日生まれ?
李珊珊 1992年2月22日生まれ
楊伊琳 1993年8月26日生まれ 1992年8月26日生まれ?

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October 22, 2009

悲劇 世界体操銅メダルから帰宅途中に交通事故死

Ryazano
ロンドンで開催されていた世界体操選手権の男子個人総合で銅メダルを獲得したユーリ・リャザノフ(ロシア)が20日、モスクワから自宅がある東部の都市ウラジーミルに向かう高速道路を運転中に衝突事故を起こし、死亡した。世界選手権から帰る途中だった。
リャザノフは22歳。
今年のロシア選手権の個人総合を制し、欧州選手権3位、世界選手権3位と将来を嘱望されていた。


こうした事故死のニュースを聞くと、必ず思い起こすのがボクシング世界フライ級王者大場政夫だろう。
1973(昭和48)年1月2日
世界王者・大場政夫はタイのチャチャイ・チオノイとのタイトル防衛戦を戦った。
大場は23歳で5度目の防衛戦、チャチャイは30歳、誰もが大場の圧勝を確信していた。
ところが、1R 大場の左のガードが下がったすきを狙って、チャチャイの右ロングフックが顔に飛んだ。
チャチャイが追い打ちをかけ、大場は右のロングフックを、あごに受け倒れた。
8カウントで大場はやっと立ち上がったという苦戦の序盤だった。

結局12R 大場は立て続けに3回のダウンを奪い、チャチャイをノックアウトする。
5度の防衛は、白井義男が持つ日本人のフライ級防衛記録を塗り替えた新記録だったのだが、悲劇はそのわずか3週間後に起きた。
首都高速を走っていた大場は、スピードを出し過ぎて事故を起こし即死、チャンピオンのまま帰らぬ人となった。

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October 16, 2009

20歳内村航平個人総合を制す 世界体操

体操の世界選手権は15日、2012年五輪開催地のロンドンで行われ、男子個人総合の決勝は、北京五輪銀メダルの内村航平が、2位に大差をつけて初出場で優勝を飾った。
予選を1位で通過した20歳の内村はミスの少ない演技で91・00点をマークし、2位のダニエル・キーティングス(英)に2・575点差をつけて圧勝した。
3位はユーリ・リャザノフ(ロシア)が入った。

五輪1年後の世界選手権で、世代交代が予想された中、ドイツのファンビューヘンが欠場、優勝候補である内村航平が下馬評どおり、圧倒的な強さで優勝した。
とはいうものの、体操競技の採点が10点を超えるようになって3年。
内村の総合得点の91.5は、2年前の世界王者、昨年の五輪王者の楊威(既に引退)の得点からはまだ差がある。

五輪・世界選手権を通じて、日本人の個人総合の優勝は8人目。
やはり6種目全てに出場する個人総合の優勝は格別である。

内村は、遠藤幸雄、加藤沢男、監物永三、冨田洋之等 往年の大エースに、若干20歳で並んだことになる。
内村の20歳は、日本人の個人総合の最年少記録となる。
これまでの最年少は、メキシコ五輪優勝時の加藤沢男の22歳だった。

2009gym_3

●世界選手権・五輪の男子個人総合メダリスト
1956年(メルボルン五輪) ②小野喬
1958年(モスクワ世界体操) ②小野喬
1960年(ローマ五輪) ②小野喬
1962年(プラハ世界体操) ②遠藤幸雄
1964年(東京五輪) ①遠藤幸雄 ②鶴見修治
1966年(ドルトムント世界体操) ②鶴見修治 ③中山彰規
1968年(メキシコ五輪) ①加藤沢男 ③中山彰規
1970年(リュブリャナ世界体操) ①監物永三 ②塚原光男 ③中山彰規
1972年(ミュンヘン五輪) ①加藤沢男 ②監物永三 ③中山彰規
1974年(バルナ世界体操) ①笠松茂 ③監物永三
1976年(モントリオール五輪) ②加藤沢男 ③塚原光男
1978年(ストラスブール世界体操) ②監物永三
1981年(モスクワ世界体操) ③具志堅幸司
1983年(ブダペスト世界体操) ②具志堅幸司
1984年(ロサンゼルス五輪) ①具志堅幸司
1997年(ローザンヌ世界体操) ③塚原直也
1999年(天津世界体操) ②塚原直也
2003(アナハイム世界体操) ③冨田洋之
2005年(メルボルン世界体操) ①冨田洋之 ②水鳥寿思
2006年(オーフス世界体操) ②冨田洋之
2007年(シュツットガルト世界体操) ③水鳥寿思
2008年(北京五輪) ②内村航平

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August 16, 2009

胸と背中に輝くTDK 世界陸上

現在ではスポーツの大会に出場する選手のゼッケンに企業ロゴが入ることは当たり前のことだ。ロゴの企業はつまりはスポンサー企業。
スポンサーからの協賛金が、主催者に支払われている。
初めてこの制度が適用されたのが、第1回の世界陸上ヘルシンキ大会というから1983年のことだ。
スポーツとビジネスとが蜜月になっていく分岐点が1984年のロサンゼルス五輪といわれるが、その1年前のことになる。

そのゼッケンスポンサーに名乗りを挙げたのはTDK。
当時からカセットテープ、ビデオテープの日本におけるトップ企業だったが、世界的知名度は、現在と比較すると低く、ヨーロッパで人気の高い陸上競技に目を付けた。
以後、世界陸上は今年のベルリン大会で12回目となるが、男子選手の胸と背中にはTDKのロゴが必ずある。

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▲三田工業がスポンサー時代の世界陸上の様子

一方、女子は第1回大会こそTDKだったが2回目以降は様々な企業が、(といっても日本企業がほとんどなのだが、)務めてきた。
中でも異色なのは87年・97年・99年にゼッケンスポンサーを務めた三田工業。
業務用の複写機、印刷機の製造販売を手掛け、日本国内よりも海外で高いシェアを誇っていた企業だが、粉飾決算事件の影響で1998年に会社更生法を申請し倒産した。

IAAFとの契約は別法人の海外子会社を通じて結んでおり、倒産後は債権者への配慮もあり、打ち切る方針を一度は決めた。が、契約を途中で打ち切っても残金の支払い義務があることや、社員の士気を高める効果などを考慮し、99年大会までゼッケンスポンサーを続けたという経緯がある。
三田工業は2000年に京セラグループ入りし、現在は、京セラミタと社名を変更している。

また、余談だが『僕って何』で芥川賞を受賞した三田誠広氏は旧三田工業の経営陣の親戚にあたる。

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December 15, 2008

室伏広治繰上げ銅メダル 日本人選手のクリーンさは東京五輪招致に有利ではないか

下記の表は、1982年から2008年までの男子ハンマー投げの年別世界最高記録だ。
1980年代には、現在も世界記録保持者であるユーリ・セディフとセルゲイ・リトビノフという旧ソ連の選手が交互に名を連ねている。
特にセディフの86m台の記録は、ドーピング違反なしには考えにくい凄い記録だ。

室伏広治が自己最高記録となる84.86mの日本記録を出したのが2003年。
この翌年以降イワン・ティホンと、デビャトフスキーという2人のベラルーシの選手が台頭してくる。
この2人こそが、今回北京五輪でのメダル剥奪となった2人なのだが、実はデビャトフスキーには前科があった。

2000年9月にドーピング違反で2年間の資格停止処分を受け、今回の処分で五輪からの影響追放が決まった。
処分確定まで随分時間がかかったのは、永久追放という思い処分のために慎重になったようだ。
一方のイワン・ティホンは、アテネ五輪では室伏に次いでの銀メダル。競技終了後は3位だったが、アドリアン・アヌシュが失格し、銅メダルから銀メダルに繰り上がった経緯がある。
世界陸上で3連覇の実績があり、2005年に投げた自己ベストは86m73と、セディフの世界記録に1cmと迫る大変な記録だ。
が、世界記録公認に義務付けられるドーピング検査を回避するために調整し、ぎりぎりのところで世界新記録にならないように測定した、と言われていた、いわば灰色と見られていた選手である。

ティホンは、パリ(2003年)、ヘルシンキ(2005年)、大阪(2007年)と世界陸上3連覇の実績がある。
現在までのところ、IAAFはこちらのメダル剥奪には言及していない。

2009年10月に決定される2016年夏季五輪開催都市。
東京は有力な開催候補地だが、日本人選手のドーピングに対するクリーンさをアピールしたらどうだろうか。

シカゴを擁するアメリカはいわずと知れたドーピング大国。
ティム・モンゴメリ、ジャスティン・ガトリン、ケリー・ホワイト、マリオン・ジョーンズ(以上陸上)、ジェシカ・ハーディー(競泳)、フロイド・ランディス(自転車ロード)を始め多くのドーピング違反者が出ている。

マドリード擁するスペインには、ツールドフランスで組織的なドーピングの中心人物として告発された医師がいる。
シカゴ、マドリード、リオデジャネイロ、東京の中では間違いなく東京が一番クリーンだ。

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December 09, 2008

メガネのエルボー 現役引退

北京五輪の陸上女子走り高跳びで、ベルギー陸上女子初の金メダリストとなったティア・エルボー(30)が5日、妊娠を理由に現役引退を表明した。コーチを務める夫と相談のうえ決めたという。
同選手は北京五輪で2m05を跳び、昨年の世界選手権を制したブランカ・ブラシッチ(クロアチア)に勝利。メガネを掛けた容貌が話題になった。

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▲メガネのエルボー(AP)

個人的な感想だが、五輪における海外選手の報道が以前に比べて減っていると思う。
新聞はともかく、テレビは「日本人選手一色」であり、「数字(視聴率)が全て」だ。
女子走り高跳びのエルボーとブラシッチの対決も、非常に面白く、印象深かった。
が、翌日の閉会式でエルボーのメガネをかけた顔がアップになっても、中継のアナウンサー氏(女性NHK)からはエルボーのエの字も出なかった。
かつての五輪中継なら「あっ走り高跳びで接戦を制したエルボーですね」と言ったはずだ。
メインキャスターともなると日本人選手以外の競技は見ていないのだろう

近眼の選手も、コンタクトレンズまたはレーシック手術等により、メガネで競技をすることはほとんどなくなった。
海外で“グラスセイコ”と呼ばれた若い頃の橋本聖子、双子でメガネだった宗兄弟、メガネを掛けた大型センター小田勝美(バレーボール)、日本人選手には何人もメガネがトレードマークだった選手が思い浮かぶ一方、外国人にはなかなかいないと思っていた。
が、北京五輪ではメガネが目立った気がする。

先述のエルボーもそうだが、野球の韓国代表の韓基周、日本戦で9回に出てきたものの、一死も取れなかった投手。
劉翔のいなくなった110m障害で金メダルを獲ったダイロン・ロブレス(キューバ)。
中国には胡凱という精華大学に学ぶ秀才の100mの選手がいた。
メガネの選手が中継に映ると思わず「おっ珍しいな」と思ってしまう。

夏冬のパラリンピックで活躍した土田和歌子さんが、「車いすはメガネと同じようなもの」と発言したのを聞いたことがある。
ともすれば特別な目で見てしまう障害を持った方のスポーツを、これほど端的に表した言葉もない。
普通にスポーツとして見てほしい。 
結婚をし、普通に子供もいる土田さんならではの言葉だ。

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November 11, 2008

冨田洋之 現役引退

体操のアテネ、北京両五輪で活躍した冨田洋之が正式に現役引退を発表した。
冨田は会見の中で
「種目別でやることも考えたが、それではこだわってきたオールラウンダーの道から外れてしまう」と、自分のスタイルを強調した。

北京五輪の個人総合で4位と、内村航平よりも下だったことがことさら強調されるが、団体決勝で冨田が出場した4種目の内、つり輪、平行棒、鉄棒で日本人最高点を出した。
ちなみに内村は床と跳馬で、あん馬は鹿島丈博が最高だった。

日本に限らず、現在の体操競技の団体では6種目全てに出場する選手はなく、得意な種目に絞って出場する。
得意種目が4種目もある冨田はまだまだ必要な選手だと思っていたが、オールラウンダーへのこだわりが彼の美学なのだろう。引退の結論になった。

アテネ五輪団体最後の演技者で鉄棒の着地を決めた姿は、刈屋富士夫アナウンサーの名実況とともに日本のスポーツ史に残る一場面だろう。

●北京五輪体操団体決勝

選手

 床 

あん馬

つり輪

跳 馬

平行棒

鉄 棒

冨田洋之

15.150

15.950

16.150

15.625

内村航平

15.700

16.150

15.925

15.450

坂本功貴

14.850

15.525

15.400

15.000

鹿島丈博

15.750

15.200

沖口誠

15.275

中瀬卓也

15.000

15.425

15.525

●男子団体総合決勝 最終順位

総 合

 床 

あん馬

つり輪

跳 馬

平行棒

鉄 棒

 中 国

286.125

45.925

46.025

48.875

49.325

49.025

46.950

 日 本

278.875

45.975

45.575

46.900

46.750

47.075

46.600

アメリカ

275.850

45.400

41.875

46.375

48.225

47.050

46.925

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October 09, 2008

朝日のコラムより

朝日新聞に興味深いコラムがあったので紹介する。

戻った暗い空

また、あの暗く重い空が戻ってきた。「国慶節」の連休が始まった10月初旬、北京の上空を厚いスモッグが覆った。五輪期間中、実施していた車両規制が終わり、激しくなった渋滞が原因らしい。国営の新華社通信ですら「バラリンピックが終わってわずか半月で大気汚染が戻った」と揶揄した。
交通整理をしていたボランティアたちがいなくなり、交差点にはカオスが戻った。地下鉄やバスの整列乗車も乱れがちだ。繁華街・王府井の路上には、スケートボードに乗った両足がない十代半ばの物ごいの少女も帰ってきた。期間中、「特別施設」に入れられていたのだという。パラリンピックが終わるとともに施設を追い出された。部屋にテレビはなく一度も五輪を見なかった。「五輪なんて興味ないわ。貧しい生活は少しも変わっていない」中国は、日本が足元にも及ばない100個のメダルを獲得し、「偉大な成功」(中国紙)だった。一方でネットでは五輪にかけた2950億元(約44千億円)もの巨費や、派手な開会式の演出への批判が根強い。あのとき見せた青空や文明的なマナーを幻で終わらせてしまうのか。すべては「ポスト五輪」にかかっている。(峯村健司)朝日新聞108日特派員メモ

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September 24, 2008

朝原宣治ラストランとアジア記録

北京五輪の男子400mリレーでアンカーを務め、銅メダルを獲得した朝原宣治の引退レースが昨日、川崎市の等々力競技場で行われた。
リレーメンバーの4人の塚原直貴、末続慎吾、高平慎士に控えで北京では走る機会のなかった斎藤仁志が揃う豪華な顔ぶれの中、朝原が10秒37で日本人最高の3位になり、有終の美を飾った。
自己ベストの10秒02は日本歴代2位、アフリカ系を除くランキングでも世界歴代3位にある。

日本歴代6傑は次のようになる。
1.10秒00 伊東浩司 富士通=当時 1998年12月13日
2.10秒02 朝原宣治 大阪ガス 2001年7月13日
3.10秒03 末續慎吾 東海大学=当時 2003年5月5日
4.10秒11 川畑伸吾 法政大学=当時 2000年9月2日
5.10秒13 田島宣弘 日本体育大学=当時 2002年5月6日
6.10秒15 塚原直貴 東海大学=当時 2007年9月16日

400mリレーの1走を務め、現役日本最速の塚原が10秒15。
伊東浩司の10秒00からちょうど10年になるが、日本人初の9秒台はいつになるだろうか。

ちなみに体格的に変わらない東アジア各国の100mの記録は次のようになる。
選手名と競技場のある都市、年の順だ。

中国記録 
10秒17 周偉 北京 1998年

韓国記録
10秒34 徐末九  メキシコユニバ 1979年

台湾記録
10秒29 劉元凱 1995年
10秒29 蔡孟霖 2006年

東アジアの中でも日本が群を抜いた短距離王国であることがわかる。
中国は、劉翔(110m障害)を除く中国記録のほとんどが1990年代に出された記録だ。
おそらくは●★と深い関係があるのだろう。

韓国はテグで2011年に世界陸上があるが、全く強い選手がいない。
どうするのだろうか。

筆者の新刊発売中

Oly3_4


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September 16, 2008

ロンドンをめざす水鳥寿思と塚原直也

体操の全日本社会人選手権第が9月13日、福井県鯖江市総合体育館で行われ、男子個人総合は北京五輪代表の座を逃した水鳥寿思が91.950点で2年ぶり3度目の優勝を遂げた。北京五輪代表の中瀬卓也は2位、塚原直也は6位で北京五輪代表の冨田洋之、鹿島丈博と沖口誠は欠場した。

アテネ五輪団体金メダルのメンバーで、北京五輪代表から漏れ、現役続行を表明していた水鳥、塚原の動向が気になっていたのだが、水鳥寿思は、ロンドン五輪をめざすそうだ。
現在28歳の水鳥も4年後は32歳になる。
水鳥の社会人選手権の得点は、91.950となり、もちろん単純比較は出来ないが北京五輪3位相当、自身の2007年世界体操3位の得点をも上回っている。

一方、塚原だが、8月21日付の毎日新聞「塚原直也の視点」で、「得意のつり輪にかけて、練習の8割ぐらいをつり輪に費やしてみようかと半ば本気で考えている。」
と述べていた。
塚原の社会人選手権での得点は、15.700。
つり輪のスペシャリストの道を歩み始めたようだが、北京五輪のつり輪のメダリストの得点はこんなに高い。

●男子種目別つり輪        
(金)陳一氷  (中国)       16.600
(銀)楊威   (中国)       16.425
(銅)ボロビョフ(ウクライナ)    16.325

●五輪メダリストの得点ほか

大会順位

名前

あん馬

つり輪

跳馬

平行棒

鉄棒

合計

五輪1

楊威

中国

15.250

15.275

16.625

16.550

16.100

14.775

94.575

五輪2

内村航平

日本

15.825

13.275

15.200

16.300

15.975

15.400

91.975

五輪3

ブノワ・カラノブ

フランス

15.350

14.875

15.175

16.600

15.050

14.875

91.925

08全日本社会人1

水鳥寿思

15.300

14.550

15.450

16.250

14.600

15.800

91.950

五輪4

冨田洋之

15.100

15.425

13.850

15.700

16.000

15.675

91.750

2007世界体操3

水鳥寿思

15.500

14.975

14.350

15.875

15.750

14.950

91.400

08全日本社会人6

塚原直也

14.700

14.700

15.700

15.400

15.500

14.500

90.500

08インカレ1

内村航平

15.350 

12.900 

15.100 

16.000 

15.600 

15.100 

90100


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