野球

November 30, 2011

シーズン中 息子の卒業式のためにアメリカに帰国したチャーリー・マニエル

米大リーグ、フィラデルフィア・フィリーズのチャーリー・マニエル監督(67)は28日、現役時代にプロ野球の近鉄でプレーしていた当時の監督だった西本幸雄さんが25日に死去したことについて、「彼のためにプレーするのは楽しかった。父のように尊敬していた」と球団を通じてコメントし、哀悼の意を表した。

阪急、近鉄(ともに現オリックス)の監督を務め、不全のため91歳で死去した西本幸雄さんの葬儀・告別式が29日、兵庫県西宮市の斎場で営まれ、近鉄時代の教え子である前日本ハム監督・梨田昌孝氏ら約650人が最後の別れを惜しんだが、西本さんに教えを受け、その訃報に悲しむ教え子はアメリカにもいた。

チャーリー・マニエル。
現在は、フィラデルフィア・フィリーズの監督を務める。
古い野球ファンには懐かしい名前だ。
大リーグでは実働6年、大きな活躍はしていないが日本では違った。
在籍していたのはヤクルトと近鉄(当時)。
地味な球団にいた割りに、その印象は強烈だ。
近鉄在籍の1980年には打率.325、48本塁打、129打点で本塁打・打点の2冠とMVPを獲得、チームをリーグ連覇に導いた。

ところが、この年の6月にこんなことがあった。
当時のパ・リーグは、前後期の2期制を採っていたのだが、近鉄が、ロッテ・日本ハムと前期優勝を争っていたこのとき、マニエルが西本幸雄監督のもとにこんなことを言ったのだ。

「長男の卒業式出席のためアメリカに帰国したい。
ふだん寂しい思いをさせているから卒業式には帰ると約束した。どうしてもだめだというなら野球をやめる。」

赤鬼との異名をとったマニエルのことばだ。
マニエルは1944年生まれでこのとき36歳。
卒業式を迎える息子は18歳の高校生だった。

そう、卒業式を迎える長男は、マニエルがまだ18歳の高校生のときに生まれた子供だった。
アメリカでは、高校を卒業した時点で大人として扱われるという。
マニエル自身が日本におり、父親としての役割を果たせていなかったから何としても卒業式に出たい、そんなニュアンスだったと思う。
日本人からはなかなか理解しがたい発想だが、西本監督はこれを受け入れた。
卒業式を終えて無事日本に戻ったマニエルは、近鉄のパ・リーグ制覇に大きく貢献した。

2008年 マニエル監督はナ・リーグ優勝決定シリーズの開幕直後に母ジューンさんを亡くした。
家族思いのマニエルだが、悲しみを乗り越えチームをワールドシリーズへと導いた。


*メジャー監督としてワールドシリーズに進出したのは、1986年にニューヨークメッツを優勝に導いた元巨人(1975~76年)のD・ジョンソン氏とマニエル氏だけ。
ほかにも、1989年カブスのD・ジマー氏(1966年東映)、2003、06年アスレチックスのK・モッカ氏(1982~1985年中日)、04年ドジャースのJ・トレーシー氏(1983~84年大洋)が監督としてプレーオフに進んだが、Wシリーズ出場はない。

1980年に高校を卒業した息子Charles jr氏は、現在49歳。
その後野球の選手にでもなったかと思ったが、調べても出てこなかった。

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November 02, 2009

東京オリンピックの開会式の日に行われていた日本シリーズ

1964 Tokyo

プロ野球日本シリーズの真っ最中である。
東京五輪の開催された1964年は、五輪開催に合わせてプロ野球のシーズンは日程が繰り上げられた。
つまり通常のシーズンよりも早く終了したわけだ。

当初、9月29日に日本シリーズが開幕する予定だったが、阪神が優勝目前にもたもたし、9月30日に優勝が決まり、2日遅れて10月1日に開幕となった。
さらに7戦までもつれたシリーズの6戦目の予定されていた10月8日が雨天中止となり、第7戦はなんと東京五輪開会式の当日 10月10日に行われた。
パリーグの覇者は南海ホークス。
福岡ソフトバンクホークスの前身であり、大阪難波にあった大阪球場を本拠地にしていた。

1・2・6・7戦が甲子園、3・4・5戦が大阪球場での試合となったが、東京五輪を考えての編成だろう、全試合ナイターで行われた。
10月10日の夜、NHKを始めとするテレビ各局は昼間の開会式の再放送をし、日本シリーズの中継はよみうりテレビでしか行われていない。
日本一が決まる甲子園の試合であるにも関わらず有料入場者は15,172人。
結局4勝3敗で南海が日本一になった。
最優秀選手は南海の投手だったスタンカ(3勝1敗)。
一方の阪神のエースだった村山実氏(故人)は0勝3敗。
南海の4番は先ごろ楽天監督を退いた野村克也氏。
南海の選手の中には大沢啓二氏の名前も見える。

この年のペナントレースでは、前ソフトバンク監督の王貞治氏が55本のシーズン最多ホームランを打っているが、巨人は早々に優勝争いから外れ、王さんは、長嶋茂雄氏と報知新聞の「ON五輪を行く」という取材で、様々な競技会場に取材に出かけた。

長嶋氏の亡くなった亜希子夫人は、東京五輪のコンパニオンを務めており、この取材がなければ二人は出会わなかったことになる。

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November 19, 2008

上原浩治は22位 田沢純一は25位

アメリカのスポーツ専門局ESPNにFAになった野球選手の評価が出ている。
MLB行きを表明している日本人選手の名前も挙がっているのだが、上原浩治は22位、新日本石油の田沢純一が25位、川上憲伸は42位と厳しい評価となっている。
1位から10位まではこんな選手が並ぶ。

1.マーク・チャールズ・テシェイラ(ロサンゼルス・エンゼルス)1塁手 2006年WBCアメリカ代表
2.カーステン・チャールズ・サバシア(ミルウォーキー・ブルワーズ)投手
3.マニー・ラミレス(ロサンゼルス・ドジャース)外野手 ドミニカ共和国出身
4.アラン・ジェームス・バーネット(トロント・ブルージェイズ)投手
5.デレク・クリストファー・ロウ(ロサンゼルス・ドジャース)投手
6.ラファエル・ファーカル(ロサンゼルス・ドジャース)遊撃手 ドミニカ共和国出身
7.アダム・トロイ・ダン(アリゾナ・ダイヤモンドバックス)外野手(ライト)
8.ライアン・スコット・デンプスター(シカゴ・カブス)投手 カナダ出身
9.ミルトン・ブラッドリー(テキサス・レンジャーズ)外野手(レフト)
10.オリバー・ペレス(ニューヨーク・メッツ)投手 2006WBCメキシコ代表

サバシア獲得をめざすヤンキースは、6年総額1億4000万ドル(約133億円)をオファーしたという。ブルワーズが残留させるために提示した額は5年総額1億ドルで、ヤンキースの提示した額通りとなると史上最高最高額となる。

11.パットン・バレル
12.オーランド・ハドソン
13.ケリー・ウッド
14.ボビー・アブレイユ 2006年WBCベネズエラ代表
15.ジェレミー・アフェリト
16.フランシスコ・ロドリゲス(K-Rod) 2006年WBCベネズエラ代表
17.ランディ・ジョンソン
18.ブライアン・フエンテス 2006年WBCアメリカ代表
19.ジュアン・クルーズ
20.ブランドン・ライオン
21.オーランド・カブレラ
22.上原浩治 2004年五輪銅、2008年五輪4位、2006年WBC日本代表
23.ベン・シーツ 2000年五輪金
24.ランディ・ウルフ
25.田沢純一(新日本石油ENEOS)
26.アンディ・ペティット
27.フェリペ・ロペス
28.ジェーソン・ジアンビ 1992年五輪4位
29.マイク・ムッシーナ
30.エドガー・レントリア
 
42.川上憲伸 2008年五輪4位

このリストの中に1人五輪金メダリストがいる。
2000年シドニー五輪で金メダルを獲ったベン・シーツ(ブルワーズ)だ。
予選リーグの日本戦では松坂大輔と投げ合い7回4安打無失点、決勝のキューバ戦ではペドロ・ルイス・ラソと投げ合い3安打完封勝利を挙げるなどアメリカ優勝の立役者だった。

MLB7年間で73勝74敗、オールスターにも3回出場した。
シーツは、2005年のIOC総会で野球が五輪正式種目から外れた際に、次のようにコメントした。
「五輪での経験はすばらしかった。でも誰もそれを目指してプレーしてきたわけじゃない。メージャーリーグでの成功には関係ないことさ」。

注目の田沢純一は、17日開催中の社会人野球日本選手権三菱重工神戸戦で5安打完封勝利を挙げた。
MLB7球団のスカウトほかの前で最速151キロをマーク、バットを4本をへし折った。

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August 23, 2008

ところで、何でプロ野球の選手がオリンピックに出ているんだっけ?

非常に後味の悪い北京五輪の野球だが、一体誰がプロの参加を容認したのだろうか。
野球は1986年のIOC総会で五輪正式種目に決まり、1992年のバルセロナ五輪から採用になった。

この頃のIOC会長は、サマランチ氏。
サマランチ会長は「五輪は最高の選手の大会に」という意向のもと、バスケットボール、テニス、自転車などがオープン化(プロ選手参加の容認)を果たした。ところが、決定は各国際競技連盟(IF)にゆだねられており、国際野球連盟IBAはその1995年の総会では、3票差でプロ参加を否決していた。
が、一転1996年のIBAは総会では、規定の3分の2を大きく上回る56か国・地域の賛成で、プロに門戸を開く規約改正を承認した。 

わずか1年での急変ぶりの裏には、五輪正式種目除外への危機感があった。
テニス、卓球、バドミントン、野球、ソフトボール、女子サッカー、女子水球、新たな正式種目は増える一方、人気のない競技が五輪から外されるという噂が急速に広がった。
逆にいうならば、サマランチ氏は、五輪から外すことをちらつかせ、オープン化を迫ったのだ。

IOCは、五輪正式種目を統括する競技団体には、助成金を払っている。
この当時IOCからIBAに年間150万ドルの助成金が払われており、プロ参加により五輪のテレビ放映権料の増大させ、IBAを通じた各国・地域への助成金の増額を約束したのだ。
言わば、プロの一流選手の出場によって野球競技に対するテレビなど主要メディアの注目度を高めよ、ということだった。
IBAは、プロ選手の参加によって、世界的な野球人気が高まって、ヨーロッパでも代表チームを整備するようになり、かなりの強化が進むと思っていたようだ。

このIOCの敷いた戦略にまんまと乗ったのが日本や韓国であり、日本はシドニー五輪から一部プロ選手が参加、アテネ、北京とプロの代表チームが五輪参加を果たした。


ところが、アメリカはメジャー選手の五輪参加を渋り、難解なルール、地域性の偏り、さらにはメジャー選手に蔓延するドーピング疑惑、IBAの無策などが要因となり、IOCはソフトボールとともに野球を、北京五輪を最後に五輪の舞台から降ろすことを決めたのだ。

今回、最後の五輪で金メダルどころかメダルなしに終わった日本代表。
野球人気が著しく低迷している中、人気回復への起爆剤どころか、さらにダメージとなったのだ。

●参考記事
続・野球とソフトボール五輪種目外へ
 
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December 07, 2007

アメリカ野球代表は五輪に行くためにメジャーシーズン中に予選を行った

星野JAPANの北京五輪出場に沸いた今週だったが、8か国参加の北京五輪アメリカ大陸代表はアメリカとキューバである。

アジア代表が五輪前年の12月の今決まったのに対して、アメリカ大陸予選は実は、2006年9月に行われている。
9月というメジャーリーグ公式戦開催中に、五輪予選を開催するということにはこんなアメリカ側の思惑がある。

アジアのようにシーズン終了後の開催であれば、ベネズエラやドミニカ共和国代表に現役メジャーリーガーが参加し、メジャーリーガーの出たがらないアメリカが、またも五輪に出場できない憂き目に遭う可能性があった。
前々回シドニー五輪にはマイナー選抜で覇者となったアメリカも、アテネ五輪は予選でメキシコに敗れ出場権を獲れなかったのだ。(五輪出場はキューバとカナダ)。

アメリカはかなり、ドミニカ共和国やベネズエラを警戒している。
この傾向は同じ2006年に行われたWBCでも見られた。
このときは、大会優勝候補とされる中南米・カリブ勢がアメリカと決勝まで当たらないという歪な組み合わせが組まれていたことを覚えておられる方も多いだろう。
主催はMLB機構、組み合わせは抽選ではなく主催者側が決めたものだった。
 
果たして、アメリカのアマチュア野球を統括するAmerican Amateur Baseball Congress がどの程度北京五輪への思い入れがあったかは不明だ。
とはいえアメリカが正式種目としては最後となる北京五輪に出場してくることは、見る側からすれば楽しみである。

●北京五輪野球米大陸予選 2006年9月 開催国パナマ
キューバ 6勝0敗 1.000 五輪出場権獲得
アメリカ 5勝1敗 .833  五輪出場権獲得
メキシコ 4勝2敗 .666
カナダ 3勝3敗 .500
ベネズエラ 2勝3敗 .400
パナマ 2勝4敗 .333
ニカラグア 1勝4敗 .200
ドミニカ共和国 0勝6敗 .000
*ベネズエラとニカラグアの最終戦の結果は不明

●参考記事
ロサンゼルス五輪の出場権をかけた野球アジア予選のとんでもないはなし

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December 06, 2007

ロサンゼルス五輪の出場権をかけた野球アジア予選のとんでもないはなし

日本代表が野球で金メダルを獲ったのは1984年のロサンゼルス五輪。
当時野球は公開競技だったが、日本代表の団体球技の最後の五輪金メダルでもある。

もう随分と昔の話なので記憶違いや、詳細不明の部分もあるが、この五輪のアジア予選はとんでもない大会であった。

ロサンゼルス五輪を前年に控えた1983年9月、韓国ソウルの蚕室競技場で野球のアジア選手権が始まった。アジアからの五輪出場枠は2カ国、日本は韓国か台湾のいずれかに勝たなければならないはずだった。

当時台湾には後に西武で117勝を挙げる郭泰源(現台湾代表監督)、ロッテで70勝挙げる荘勝雄、日本には後にヤクルト入りする青島健太や阪神入りする池田親興などがいた。

9/03 韓国 vs. 豪洲  6:2   日本 vs.フィリピン 11:2
9/04 台湾 vs. 日本  3:1   豪洲 vs.フィリピン 4:1
9/05 雨天のため一日順延
9/06 台湾 vs. 韓国  1:2   日本 vs. 豪洲  8:4
9/07 韓国 vs. フィリピン 11:1   豪洲 vs. 台湾  1:5
9/08 台湾 vs. フィリピン 5:2   日本 vs. 韓国  2:2(10回再試合)
9/09 日本 vs. 韓国  2:3
          ~~上位4カ国による決勝ラウンド~~
9/10 豪洲 vs. 韓国  2:5   台湾 vs. 日本  4:5
9/11 雨天のため一日順延
9/12 台湾 vs. 豪洲  10:0   韓国 vs. 日本  1:4
9/13 豪洲 vs. 日本  0:10   韓国 vs. 台湾  2:3(延長11回)
    日本 vs. 台湾  0:1

●Result
1.韓国  予選4勝0敗,決勝1勝2敗(合計5勝2敗)
1.台湾  予選3勝1敗,決勝2勝1敗(合計5勝2敗)
1.日本  予選2勝2敗,決勝3勝0敗(合計5勝2敗)
4.豪洲  予選1勝3敗,決勝0勝3敗(合計1勝6敗)

予選と決勝リーグの勝敗が合計されたため、韓国、台湾、日本の3カ国が同じ勝ち星になり、3カ国が優勝を分け合うことになった。

が、肝心の五輪出場権については、
雨天順延となった9月11日に韓国がこんなことを言い出した。
「我々は昨年の世界選手権で優勝しているのでロサンゼルス五輪に推薦出場すべきである」と。
このあたりの詳細については記憶にない部分もある。
が、これが通ってしまったのだ。

アジアに2枚割り振られていた出場権の一枚は韓国へ。
そして日本は台湾とプレイオフによってもう1枚を争うことになった。

郭泰源と池田親興の投手戦になった。
この当時の郭泰源はMAX154キロ、158キロ出ていたという話もある。
日本、台湾ともにゼロが続く中、9回ウラ趙士強のサヨナラホームランが飛び出し、五輪出場権は台湾に渡った。

ご存知のようにロサンゼルス五輪は、モスクワ五輪の報復として東側諸国がボイコットをする。
野球に出場するはずだったキューバも同調した。
そしてキューバの代替には日本が選ばれた。

日本は、急な五輪出場に大学生を主体とした若手で編成することにした。
そのため青島健太等社会人野球を支えてきた選手が外れた。

そして金メダル獲得。

東芝のエリート社員でもあった青島はここままアマチュアで野球を続けていても金メダルを獲った五輪代表よりも評価されることはない、としてドラフト外でヤクルトに入団するのだ。

●1983年日本代表
投手:鈴木政明、黒紙義弘、西村基史、池田親興、池尻康晴、藤高俊彦、岡田邦彦
捕手:佐竹政和、島田宗彦
内野手:武智勇治、武居邦生、中屋惠久男、宮崎剛、正田耕三、望月伸一、青島健太
外野手:中本竜兒、福本勝幸、鶴岡昌宏、小林貢

●参考記事
デドー監督逝く

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October 29, 2007

レッドソックスにも在籍したベネズエラにいる野茂英雄

米大リーグの王者を決める第103回ワールドシリーズ(7回戦制)は28日、当地のクアーズ・フィールドで第4戦を行い、松坂と岡島のレッドソックス(ア・リーグ)が松井稼所属のロッキーズ(ナ・リーグ)を4-3で破り、4連勝で3年ぶり7度目の優勝を遂げた。日本人選手が所属する球団が頂点に立ったのは3年連続となった。(時事通信)

こうした華やかなニュースの一方、日本人メジャーリーガーの草分けで、ベネズエラのウインターリーグに参加している野茂英雄の話題が入ってきている。

カラカスライオンズに加入した野茂英雄は25日 ナベギャンデ・マガリャネス戦で2度目の先発マウンドに立ち、打者6人に4安打を許し、4失点で初回KOとなった。チームも2-6で敗れている。
次戦は10月31日にホームで行われるTiburones de la Guaira戦だそうだ。

野茂も39歳。
先日はメジャーでも活躍した吉井理人(42)がロッテを戦力外になった。
メジャーには40代の投手も多くいるが、野茂のメジャー復帰はあり得るだろうか。

松坂は27日の試合で、Wシリーズ日本人投手初先発初勝利を挙げたが、3回にはメジャーでの初安打となる2点適時打を左前に放った。
レッドソックスの投手では1918年のベーブ・ルース以来の1試合2打点という快挙らしい。

もちろんアメリカンリーグ所属なのだからなかなか打席に立つことはないのだが、ベーブ・ルース以来というところが松坂らしい。

一方の野茂英雄は、メジャーにおける日本人初ヒット(1995年7月17日)、初打点(1995年8月7日)、初本塁打(1998年4月28日)の記録も持っている。

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October 23, 2007

東大加藤投手 リーグデビュー

東京六大学野球(神宮球場)で、生まれつき左手が親指と小指だけで、左足も甲から先がなく義足の東大・加藤善之投手(2年、神奈川・栄光学園)が21日、立大2回戦でリーグ戦デビューを果たした。
加藤投手は右投げだが、左利き用のグラブを使う。球を投げ終えると、左手のグラブを外して左脇に挟み、素早く右手にはめ直して捕手からの返球を受ける。高校時代は軟式野球を経験し、03年夏はエースとして全国大会にも出場した。 (asahi.com)

加藤選手のことは高校生の頃から新聞等で知っている。
神宮で頑張って欲しいのはもちろんだが、マスコミの「身障者なのに凄い」的な論調は気になるところだ。
本人も特別視されて報道されることは、嬉しいとは思ってないのではないか?

MLBのエンジェルスなどで活躍した投手にジム・アボットがいた。
隻腕投手と呼ばれた。生まれつき右手首から先がなかったのだ。
右利き用のグラブを右手の手首の上に乗せ、左手での投球直後にそのグラブを左手にはめ直す「アボット・スイッチ」と呼ばれる投げ方をした。それでも平均以上のフィールディングをした。

ミシガン大在学時にソウル五輪の米国代表として金メダルを獲得(当時は公開競技)。
決勝戦の相手 日本のピッチャーは野茂英雄、キャッチャーは古田敦也、さらには野村謙二郎といった後の球界を代表する選手が参加していた。
ドラフト一巡目でエンジェルス入団。1991年には18勝、ヤンキース時代の1993年にはノーヒットノーランも記録した。

隻腕投手にとっては、バントが泣きどころだ。一試合で連続9人のバント攻撃を受けたこともあるが、アボットは8人までアウトにした。
障害の有無に関わらず、ゲーム中に遠慮はない。それをはね返すアボットも凄い。
アボットの不屈の精神を育てたのは両親と、コーチや選手の分け隔てしない友情、と米国のスポーツ環境だろう。

野茂英雄の同僚だったブリューワーズで引退。
MLB通算87勝108敗。
「僕の野球人生は終わりにきたと思う。やるべきことはやったし、満足はしている。僕のキャリアは偉大ではないけど、素晴らしかった」
と言い残している。

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September 21, 2007

麻生太郎氏の後輩 プロ野球志望届提出

プロ野球選手を志す高等学校3年在籍者が、日本高等学校野球連盟に提出する届出書類のことを「プロ野球志望届」という。日本高校野球連盟は15日にを締め切り、105選手(41都道府県)から届け出があったと発表した。
が、19日になって提出者が1人追加された。届け出は15日で締め切られたが、手続き上の手違いで東京・学習院の山田明良選手が最終リストに入っていなかったという。

学習院高等科からプロ野球志望届とは驚いた。

学習院高等科は、自民党総裁選に立候補中の麻生太郎氏の出身校でもある。
120余年の歴史を有する学習院は、元々は華族の子弟のための学校として東京に開校された学校であり、麻生氏の祖父である吉田茂、三島由紀夫など錚々たる卒業生がいる。(吉田、三島とも大学は東京帝国大学)

今年の野球部は強かったのだろうか、調べてみると、

2回戦 学習院 10-6 昭和一
3回戦 都総合工科 13-1 学習院

初戦は勝つも二戦目で敗退している。
山田選手についても特に記事は出てこない無名の選手のようだ。

もっとも麻生氏もモントリオール五輪出場という経歴があるので、山田選手も隠れた逸材かもしれない。
 
●麻生太郎氏 1976年モントリオール五輪出場
種目名: クレー射撃、スキート
記録: 41位(参加人数不明)

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August 10, 2007

ボンズ756号 でも視聴率は1.1%

米大リーグ、ジャイアンツのバリー・ボンズ外野手(43)がメジャー通算本塁打記録を塗り替える756号を放った7日(日本時間8日)の試合の視聴率が、1.1%だったことが8日(同9日)、分かった。 スポーツ専門局ESPN2で中継され、視聴世帯は99万5000に相当。1974年にハンク・アーロンがベーブ・ルースの記録を更新する715号を放ったときはNBCが中継し、視聴率は22.3%(1490万世帯相当)。現在はチャンネル数が多いことなどから大差がついたようだ。(AP/SW/共同)

MLBは好況が伝えられる。
2006年には全体で52億ドル(約6130億円)の収入があり、全30球団の観客動員数は7600万人を超えた。
今年もこの数字は更新されると見られている。
7月21日に行われた16試合の観客動員も63万9628人に達し、1日の記録としては史上2位を記録している。
(過去最多記録は1999年7月3日の17試合で64万412人。)

その割りにテレビの視聴率はあまり高くない。
イチローがMVPを獲得したMLBオールスター戦(10日)を中継したFOXテレビの視聴率が8・4%。ニールセン社の調査結果によると、視聴者数は推定約3140万人だという。

オールスターから比較しても、薬物使用疑惑で人気のないボンズとはいえ、MLB新記録の試合が1.1%とは、随分全米の関心は低い。
王監督が現役時代、H・アーロンのMLB記録を超えたときには随分と騒がれた記憶があるが、果たしてどのくらいの数字を獲っていたのだろうか。
あまりに昔過ぎて確かな数字が出てこない。

ちょうど30年前の1977年8月31日、王さんがハンク・アーロンの持つ755号に並んだ日の瞬間最高視聴率は、50・2%(ニールセン調査)。
残念ながら756号の数字はわからない。
多チャンネル化は日本も同様だが、今だったらどのくらいの数字を獲っただろうか。


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